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ここが地獄だここで泣け、牢獄の原理、

十一月十日

「だってきみのうんこは半分出て、半分お尻に食っ附いていて、何時も苦しそうで見ていられないから、拭いてやるんだよ、どう、らくになっただろう。」
「ええ、ありがとう、あたいね、何時でも、ひけつする癖があるのよ。」
「美人というものは、大概、ひけつするものらしいんだよ、固くてね。」
「あら、じゃ、美人でなかったら、ひけつしないこと。」
「しないね、美人はうんこまで美人だからね。」
「では、どんな、うんこするの。」
「固いかいかんのそれは球みたいで、決してくずれてなんかいない奴だ。」
「くずれていては美しくないわね、何だかわかって来たわよ。」
「きめの繊かいひとはね、胃ぶくろでも内臓の中でも、何でも彼でも、きめが同じようにこまかいんだよ、うんこも従ってそうなるんだ。」

室生犀星『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』「蜜のあわれ」(講談社)

午前十一時四五分起床。柿ピー、カフェインチョコレート、紅茶。雨。八代亜紀。きのう文圃閣行った。ここんとこ毎週行ってる。買ったのはパスカル『パンセ』、森銑三『偉人暦(上)』二冊、寺山修司『さかさま文学史黒髪篇』および『幸福論』、井上光晴『乾草の車』、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』、松谷みよ子『昔話十二か月(一月の巻)』、D・バーンズ『夜の森』、ジャン・ジュネ『葬儀』、J・P・ドンレヴィー『赤毛の男』の十一冊で、締めて一四五〇円。森銑三のはてっきり上下揃いと思って買ったらどっちも上。気分上上ということで自分を慰める。歴史好きの友人がいれば譲るんだけど。帰宅後、現代アートマニアのダイス氏からの誘いで南砺市の温泉へ。一時間半ほど露天の湯を堪能。毎週行きたいがさいきんは金欠気味だからな。本買いすぎなんよ。もっと食費を切り詰めろ。生きるために読むんじゃない、読むために生きるんだ。狂気。

古田徹也・他『絶版本』(柏書房)を読む。
思い出の「絶版本」をめぐって二四人が書き下ろしたエッセイ集。古書愛好度の高いオイラとしてはもっとこの世界に浸かっていたかったな。出版業界には「絶版」と「品切れ」という言葉があって、前者は出版社がその本を出版する権利を失っている状態で、後者は在庫がなくなっている状態(重版が予定されている場合とそうでない場合とがある)のことを指す。「ふつうの読者」にとっては手に入らないという点では同じなのだが、いちおうなんらかの便宜上の区別はあるよう。小川さやかの挙げたコリン・M・ターンブル『ブリンジ・ヌガグ 食うものをくれ』にはかなり食指を動かされた。一九六〇年代半ばにおけるウガンダのイク族を調査したもので、われわれがごく素朴に「人間性」と呼んでいるものをほとんど失った人々が克明に描かれている。もともと彼らは狩猟採集民だったのだが、ウガンダ独立(一九六二年)の後、定住と農耕を強いられることになった。そこに旱魃などが重なり食糧不足は慢性化、兄弟だろうが子供だろうが、他人のことなど誰も構っていられなくなる。他人に食べ物を分け与える少女が「気違い」扱いされていた、という話は気分を悪くさせるのに十分。
ほかに岸本佐知子の挙げたティム・バートン『オイスター・ボーイの憂鬱な死』も気になった。ティム・バートンは映画『シザーハンズ』などを監督した人。「異形の者」がそうとう好きらしい。

もうそろそろ飯食うわ。二時には図書館に入りたい。いま隣の爺さんがまたタバコ代を借りに来た。もちろん貸さない。もっともいま財布はほぼカラに近いので貸そうにも貸せないのだが。

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