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カネを人に貸すことの辛さについて、あるは生き地獄パラダイス、

五月二五日

午前七時五一分。不安と憤怒でほとんど寝られなかった。阪神が戸郷にノーヒットノーランを食らったからではない。野球なんかもう随分前からどうでもいいんだ。昨夕、図書館から帰って来た直後、爺さんが金は次の年金支給日まで待ってくれと言いに来た。理由はまた例のごにょごにょ作戦でよく分からないまま。生活に困ってる知り合いの女に譲ったとか、そんなふうなことを言っていたが、その真偽などはどうでもいい。どうしてこっちではなくそっちを優先したのか、と考えると腹が立って動悸がする。なめられているのか。こっちだって何かと支払いが大変なんだ、と何度も言ったのに。いったいこの人は何を考えているのか。どうして人はこうすんなりと金を返さないのか。俺だって人のことは言えない。奨学金の返済をずるずる毎年先延ばししているじゃないか。爺さんを罵ってもその言葉はそのまま自分に返って来る。「人間嫌い」の俺はこういう貸し借り関係が長引くのを少しも好まない。頭の悪い人間のへらへら顔をこれいじょう見たくない。俺はたまに本の話などが出来る二三の友人がいれば十分なんだ。もういっそのこと譲ろうか、と何度も思った。人間の小さい俺にそんなことが出来るものか。だいたい無職で生活もカツカツだろうが。待つのは辛い。先週に読んだブコウスキーの文章を思い出した。この前も引いたけどまた引こう。ちょっと長めに。

俺たちはさんざん待った。俺たちはみんな。待つことが人を狂わせる大きな原因だってことくらい、医者は知らんのか? 人はみな待って一生を過ごす。生きるために待ち、死ぬために待つ。トイレットペーパーを買うために並んで待つ。金をもらうために並んで待つ。金がなけりゃ、並ぶ列はもっと長くなる。眠るために待ち、目ざめるために待つ。結婚するために待ち、離婚するために待つ。雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ。食べるために待ち、それからまた、食べるために待つ。頭のおかしい奴らと一緒に精神科の待合室で待ち、自分もやっぱりおかしいんだろうかと思案する。

『パルプ』(柴田元幸・訳 筑摩書房)

金が返って来るのを待つのは辛い。その宙吊りの時間をどういう気持ちで過ごせばいいのか分からない。不信と信用とが単調にせめぎ合う「不毛の時間」。おそらく金を借りる方よりも金を貸す方がその強いられる心労は大きいだろう。貸す方は大なり小なり、「自分はすぐに返さなくてもいい人間だと相手にバカにされているんじゃないのか」という怒りの疑念に苛まれている。俺のように「自尊心」の根が弱い人間は、たったこの程度のことで苦しんでしまう。「自尊心の危機」に直面してしまう。もう譲った方が楽なのではないか。三週間も待つのはしんどい。けっきょくは返って来るにしても、そんなに長い間を宙吊りにされることには耐えられない。俺がこれほど苦しんでいることを爺さんは知っているのだろうか。ここに「苦しみの非対称性」があるのだとしたら、それにもまた怒りを覚えてしまう。弱気のせいで他人に対して厳しく出ることが出来ない自分の「性格」が呪わしい。とりあえずきょうこのあと事情聴取を行う。詰問調にならないよう努力しなければいけないだろう。ただ俺はどうしても、「なぜ俺に返すほうを優先しなかったのか」が知りたい。でないと怒りの疑念が収まらない。いま爺さんはほぼ一文無しだという。また貸してほしい、と言っている。飢えて死ね、と思わないでもない。Wi-Fiが切れている。破れかけのコンドーム。ミクシィ島。

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