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家畜人どぐらまぐら、ますたーいつものやつ、できればむかつかずに書きたい、渡る世間はクズばかりパートⅡ、

三月六日

棟方志功が旅館に泊っている時、手洗いに行って、スタスタ床の上を歩いてゆくので、「先生、スリッパがあります」と教えたら、大声で、
「ぼくはね、便所のなまぬるいスリッパが世の中でいちばん嫌いなのよ」

戸板康二『最後のちょっといい話(人物柱ごよみ)』(文藝春秋)

午前十二時一分。ネスカフェのコーヒー、芋けんぴ。コーヒー粉が細かすぎるからかフィルターが安すぎるからかお湯が順調に透過してくれない。いらいらする。たかがコーヒーを飲むのに十分以上も費やしたくない。「近眼のマグー」(Mr. Magoo)を見るのがさいきんの夜の楽しみ。眼の悪い裕福な老人のドタバタアニメ。「すれ違いコント」の手法も光る。短編アニメは飽きる前に終わってくれるからいい。「自分は好きだけど視力の悪い老人を笑いものにしているから今では放送できないだろうな」なんてコメントがあったけど、そういう「自分は構わないけど世間は」的な思考こそいわゆる「同調圧力」や「自主規制」を可能ならしめるものなんだよね。そのことにもっと自覚的であってほしいよ。森達也『放送禁止歌』(知恵の森)は、テレビやラジオで流すことを禁止されている曲など本当に存在しているのかという問題に迫ったドキュメンタリーを書籍化したもの。メディアにおける「部落問題」などにも踏み込んでいる。美輪明宏の「ヨイトマケの唄」も長らく流されなかったという話も出てくる。あのなかの「土方」という言葉がよくないと認識されていたそうだ。そういえば某掲示板で土方歳三の話をしていたら「土方は差別用語です」と絡まれたなんていう都市伝説を聞いたことがある。さいきんは「IT土方」なんて妙な言葉もあるね。「差別用語の歴史」についてはまだ研究不足。ほんとうはミシェル・フーコー的な学者がそれについて書かなければならないのだ。

R.D.プレヒト『デジタル革命で機械の奴隷にならない生き方(ディストピアを超えて現代のユートピアへ)』(美濃口坦・訳 日本評論社)を読む。
あまり新知見は得られなかった。なんで手に取ったのだろう。表紙がアンリ・ルソーの絵だったからかも。著者はドイツの哲学者。いわゆる「GAFA」の寡占を危惧する文章がやけに多かった。このへんはいかにもヨーロッパ人らしい。むかしのヨーロッパ人は教会の告解室で「自分の罪」なんかを告白していたけど、こんにちの人々は検索ボックスでそれをやる。「ネット」はきょうも人間たちの悩みや愚痴を無際限に吸収している。GAFAなどが所有している「個人情報」の量はもはや天文学的数字にのぼっていて、それを問題にすること自体がバカバカしいくらいだ。誰それはどういうオナホールが好みだとか、どんな性癖を持っているかとかも、GAFAは知っている。ユーチューブは頼んでもいないのにいつも「おすすめ動画」を表示してくる。よくそれを不快に感じると言いたがる人がいるけれども、俺はむしろそういうのをありがたく感じる。「自由意志なんて糞食らえだ」という気持ちになることが多くなってきたからかも知れない。そういう「レコメンド機能」については、「お前は俺以上に俺の好みが分かってる」と褒めたくなることもしばしば。「孤独な人間」ほどそう感じやすいではないだろうか。
スイスでは金融取引に0.05%課税するだけで相当のベーシックインカム財源を確保できる、といった記述があったけど、人口が一千万人にも満たないスイスと日本とでは何もかもがぜんぜん違うのであまり興味を引かれなかった。ただ、「人は金を稼いでこそ一人前」といった現代でも地域によってはかなり根強く残っている「人間観」をなんとか乗り越えようとしている著者の姿勢には共感した。

「人間」という概念には注意を払ったほうがいいかもしれない。ニーチェによると、人間とは「未確定の動物」である。哲学者のカール・シュミットは「人類などというのは嘘のはじまりだ」といっている。人間はその生存条件にあまりにも多くのことが影響されているため明確な定義を与えることが難しい。たとえば、中世時代のヨーロッパ人にとって神の手の中で生きていることは自明であったし、またまもなく神の支配する千年王国がはじまると確信していたが、現在、彼らと同じように中部ヨーロッパの住民である私たちにとってはあまりにも奇異な考え方である。「人間」がお金を稼ぐために働かなければ、暇を持て余していて、生きる意味をもたないというのは、独りよがりな固定観念である。

おそらくどんな「時代」のどんな「社会」にも私が「一人前イデオロギー」と呼んでいるものがある。「~してこそまともな大人」だという岩盤的観念。これに正面から抗うのは得策ではない。軽妙に踊りながら掘り崩そう。柔よく剛を制す、だ。いずれにしても、「労働者」であることによってしか自尊心を自給できない「貧困なる精神」はいずれ克服される必要がある。漱石は『草枕』で「非人情」という言葉を使ったけど、俺は「非人間」という言葉をさいきんは好んで使っている。「非人間的」というのは俺にとっては褒め言葉でしかない。

そろそろ図書館行くか。心も体もダルメシアンなんだけども。今日から原則として図書館入りは三時半とする。早く行くと途中でお腹がすく。だいたいこの頃は外出するのさえ苦痛なんだよ。

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