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Niの萌芽

私はNi過多なINTJを自認しており、日頃から主機能であるNi(内向直観)を持て余し、それゆえ、その働きや効果、詳細をあれこれ調べたり、好き勝手な推察をしています。元来、私は興味の幅が大変狭く、何に付けても内側へ向かう性分のため、自分の内面を掘り下げることに全く飽き足らず、加えて内面の資源は無尽蔵、かつコストもオールフリー!お財布にも優しいため、かなり都合の良い関心事であったりします。


■Niと象徴

先日、私があげた記事に対し、フォローをいただいている方より、内向直観に関する洞察に溢れたコメントを頂戴しました。本当は記事ごとこちらに再掲したく試したのですが、私のPCスキルが低く残念ながら記事を貼り付けられず断念しました。なお、記事のタイトルは「なにをもたらすか構文」です。

コメントの内容は、心理機能に関する説明において、内向直観のキーワードに「象徴」という言葉が用いられることが多いが、象徴にどのような意味合いが含まれているのかこれまでわからなかった、記事を読んでその答えを導き出すことが出来た、というものでした。

これは私も同様に感じていたことであり、「象徴」という概念が抽象的過ぎるあまりNiと上手く結び付けられず、一体どうゆうこと?と長らく掴み切れずにいた次第です。

ということで、以下は、これは何とか私なりに2つの概念を結び付けたいと思い立ち、いただいたコメントをヒントにあれこれ考えたことに関する一考察となります。

■人類とNi  どのようにNiは発達を遂げたのか

まず、象徴とは何か。象徴という語句を辞書で引いてみますとこのような説明が書いてあります。「象徴」とは、概念や感情のような抽象的な物事を、より具体的なものに置き換えて端的に示すこと、またはそのような役割をもつもののこと、とあります。これって要は、「見えないものを見えるものに置き換える行為」てこと?とかなり雑ですが私はそのように捉えました。

では、見えないものを見えるものに置き換える行為をヒトはいつ獲得したのでしょうか。こうゆうとき、話を大きくするのが私の性分です。物事の原初がどうであったか無性に知りたくなってしまうのです。当然、タイムマシーンは無いので素人かじりで得た知識を独断的な想像力(思い付き)で補完し着想を膨らませることにします。

人類とNi。まずヒトの脳の働きは果たしてどのように発達したのでしょうか。ここから先は、京都大学、霊長類研究所教授の浜田穣氏の著書、「なぜヒトの脳だけが大きくなったのか 人類進化最大のなぞに挑む」を参考にしながら、ヒトの先祖、類人猿の頃から連なる脳の機能発達の視点から記してゆきます。浜田氏の書籍から逸脱した発想、推察になっていたり、少々退屈な文章が続いたりと誠に不十分では有りますがお付き合いをください。

(1) 脳の構造                                                                  

はじめに、脳の構造を大雑把にまとめます。ヒトの脳は、大きく、大脳、間脳、脳幹、小脳で構成され、更に大脳は大脳皮質と大脳新皮質の2層構造となっています。また大脳は左右の左脳と右脳に分かれ、その間を脳梁(のうりょう)がつないでいます。そして脳幹の下、首の盆の窪といわれるところあたりに延髄があり、更にその下方の背骨の中を脊髄神経が通り、体幹や左右の手足へと至ります。脳から手足へ通ずる運動や感覚の働きは大脳皮質がその中枢を占めており、手足で得た感覚刺激は脊髄を通り大脳皮質へ伝わり、手足の運動指示は、大脳皮質から発せられた神経伝達が脊髄神経を通り、手足の抹消神経へと至る仕組みとなっています。

(2)身体の恒常性を司る機能と快、不快の関係

延髄や脳幹、間脳は、身体の恒常性を司る脳と呼ばれており、呼吸や心拍、体温を一定に保つ働きや姿勢や体のバランス、その他ホルモンバランスを自動的に整える機能を有します。これらの機能は、鳥類や哺乳類動物において著しく発達しており、安定かつ恒常的に働かないと動物は当然ながら生命の危機や身体上の重大な事態に瀕します。(例えば、爬虫類動物は体温を恒常的に保つ働きが無いため、恒温動物に対する変温動物と分類されており、体温の低下から身を守るため蛇は冬眠という一種の仮死に近い状態になります)

視覚、聴覚、触覚、痛覚といった体の末端で得られる感覚刺激情報が、これらの恒常性を司る機能(心拍や呼吸)に影響を及ぼすことで、動物の持つ「快、不快」という生命に根ざした感覚が生み出されたのだと思います。

例えば、ヒトの先祖である小型哺乳動物が、大型肉食動物に捕食される危機に遭遇するとき、『視覚情報(肉食動物を見る)が神経を通じて脳内に伝達される→自動的に心拍数や脈拍が急増、筋緊張の上昇(恒常性に関わる機能の亢進)→生存本能に根ざした反応へ身体資源を集中させる』体内ではこのような反応が瞬間的に起こります。そして、これら一連のシステムの結果として「快、不快」という感覚を得たと思われます。「快、不快」の多寡が生死を大きく分けたからこそ、動物の本能におけるこの感覚は研ぎ澄まされ、更にはヒトの微細な感覚分化へと大きく発達したのかもしれません。

(3)記憶を司る海馬

次に、脳幹、間脳の上部に位置する大脳、その中央には記憶を司る「海馬」という部位があります。ヒトはこの海馬を著しく発達させることで他の動物には無い高い記憶力を獲得しました。記憶の原初は、生命と直結したものであったことでしょう。どこへ行けば食料にありつけるのか、手にした食料に毒性は無いか、外敵が潜んでいる場所はどこか…。ヒトは、生存をかけ、多様な経験をより大量の情報として脳内で定着、活用させる力の獲得にひたすら邁進しました。

(4)感情の働きと感覚・記憶との関係

また、更に「快、不快」とこの「記憶」とを連結させ、海馬の近くにある扁桃体、松果体といわれる部位を用い「感情」というものを作り出しました。過酷な自然環境や外敵に襲われるといった生存に直結する事象に対し、恐怖や驚き、それに起因する不安や焦燥といった感情を連動させることで、危険を事前に回避したり、危機と対峙する力をも備えるようになり、ヒトの生存能力が驚異的に飛躍したと推測します。もちろん、ヒトに限らず他のチンパンジーやゴリラ等の他の霊長類も研究により感情を有するとされていますし、犬や猫、馬といったペットや家畜にもその振る舞いから感情が有るように読み取ることも可能です。

(5)大脳新皮質による見えないものを見る力

しかし、他の動物種と異なり、ヒトは生命の危機に直結する感情のみならず大変に複雑で細やかな感情をも創出しました。それらが悲しみや怒り、喜びや慈しみ、またそれらを更に高めた同情や共感、感応といった社会的な感情群です。

ヒトは、動物種のなかでは個体としては非常に非力です。単独になれば高確率で肉食動物に捕食されることは想像に難く有りません。そのため、生存上、集団、仲間といることで外敵からの捕食リスクを下げる戦略を身に付けました。よって、仲間といることで安心、安全といった快感覚、好感情がわきます。また、赤子を育てている女性や小さい子供たちは、自ら外界へ出かけ独力で食料を得ることは出来ません。よって、集団の仲間たちが外へ出て狩猟や採集による食料を持ち帰ってくることを辛抱強く待たなければなりません。そのとき、仲間の帰りを待つ、狩猟の成功を願う、彼らの無事を案ずるといった、より人間的な感情が芽生えたのでないでしょうか。

また、種の保存に基づいて子供を産み育てる行為は、本能的に備わる行為であり、個体では非力なヒトという種は、更にそれを強化するため、我が子そして仲間の子供らも、等しく誕生を祝い、成長を願う心の働きを得ました。愛情、慈しみといった感情はこのような過程のなかで生まれたのだと思います。そして愛情が生まれたと同時に慈しむ対象を失ったときの喪失感、悲しみや悼む心も生まれたはずです。

以上の感覚、感情という働きは、ヒトの先祖が樹上の生活から草原に降り立ち、二足歩行を始めたあたりから徐々に、ときに爆発的に発達していったのではないかと想像します。

あと、横道にそれますが、私は「直観は不安から成る」というネガティブな自説も持っているのですが、こうして脳の機能の発達順序やヒトの社会性の獲得、小さな群れから大規模の集団へと生活形態を変化させてゆく過程を想像すると、愛や慈しみというポジティブな感情の介在が無ければ直観は成立し得なかったように思うようになりました。よって、明日はわからないけれど、今日のところは「直観は愛から成る」説に軍配を上げたいです。

そして、ヒトは脳の働きを拡大させながら、最終的に大脳の表層にある大脳新皮質前方にある前頭連合野という部位を大きく発達させ、目に見えない姿や世界をイメージする能力を獲得し、誰かを思ったり、何かを考えたり、願うこと、祈る力を生み出したような気がします。これら感覚や感情が繋ぎ合わされ、複数の記憶が紡ぎ出したイメージやビジョンこそがヒトをヒトとたらしめる小さな芽吹き、「Niの萌芽」にあたるのではないか。Niの原初、Niを辿る歴史を頭の中で想像しているうちに、そのような考えを私は強く抱くようになりました。

■Niの萌芽 目に見えないものを表す力、形にする力

複雑な感情を生み出し育むことで、ヒトは目に見えない感情や形には表されないものを表現、形にすることを身に付けました。つまり、それは概念化に至る思考力や想像力、創造力の発露であり、それはまさに、抽象化、象徴化の過程です。太古の人々は、リズム、メロディ、踊り、絵、道具などを用い、象徴というヒトしか有しない概念、手法を生み出したのではないかと思います。例えば、リズムやメロディ、踊りというものは、自然界の風の音や雨の音、鳥のさえずり、燃えさかる炎の勢いといったものと、感覚や感情とを呼応させることで創り上げられてきたような気がします。

そして、長き時間をかけ、遂に人類(ホモ・サピエンス)は「言葉」という最大かつ究極の抽象概念を生み出し、神や神話、宗教という無形の価値、象徴を創出しました。

こうして人類は、概念、価値といった無形のものを生み出し、互いに認識、共有する力を得ました。例えばそれは、世界を見えない線(概念、価値)で分けることも抽象化能力のひとつであり、自分と他者、身内と外、土地の境界、あの世とこの世、と異なる世界、概念を生み出すことに繋がります。

また、言葉が出来たその先に成立した、農耕社会構造である「新石器革命」は、見えない線を引いたことにより生まれた革命とも言えそうです。見えない線を引き、見えない線を共有することで、人類は抽象概念に依って立つ高度文明という劇的な装置を作り出し、ヒトと動物、ヒトと自然とを分離させた人間中心の世界構造を立ち上げたのです。

いただいたコメントに、「新石器革命において、心の革命=Niの獲得が起きたのではないか。人類を人類たらしめるめばえをそこに見た。」とあるのを見て、私はその言葉に抑えきれない深い感慨を心の内奥にじんと覚えてしまうのです。

■Niとは抽象化メカニズムそのものである

ところで、話は飛びますが、私はかねてから、Niとは、いわゆる抽象化メカニズムとほぼ同義なのではないかと考えています。これは、著述家の細谷功氏の「具体⇆抽象」の概念に着想を得て結論づけた完全なる私の思い込みですが、細谷氏の論じる具体から抽象へと至る2つの概念構造そのものが内向直観の概念と非常に近しく感じるのです。

Niとは、新しい概念、価値を生み出すこともできるし、抽象化を推し進め、それらを分け、切り刻み、客体化、構造化させ、物事の効率化や生産性を高め、人類の発展に大きく寄与する力になり得ます。しかし、その一方で、それが行き過ぎれば、社会の仕組みやそれを構成する人々を、システムの中に押し込み、砂粒化させ、大本の存在そのものを消し去りかねない非情さ、残酷さも有しているように思います。Ni=抽象化メカニズムとは、人類にとって、薬にも毒にもなり得る、とてつもなく強大な力なのです。

■Niとは「諸刃の剣」である

話が大きくなり過ぎました。最後にまとめますと、Ni、内向直観が「象徴」のキーワードとして用いられる所以は、この目に見えない、存在しないものを生み出す力、形に表す力にあるのではないかと私は考えます。また、先に書いたように、Niは「諸刃の剣」です。その活用においては、常に人類におけるNiの原初、Niが生まれた歴史に立ち返り、その萌芽がヒトの思いや願い、祈りのなかにあることを決して忘れてはならないのだと深く感じ入った次第です。

毎度のごとく主観と確証バイアスに満ちた考察で、およそ信憑性の欠いた非科学的、非論理的な話になってしまいました。特に脳の生理機能に関する記述は正確性を逸する内容も多分に含まれているかと思います。ここは素人語りの、Niと象徴との関連性に重きを置いた考察、というか夢物語、いえ妄想の類だと思っていただきひとつ免じていただけますと幸いです。

以上、長文、駄文のところお目通しをいただき誠に有難うございました。



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