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思考型だけどちっとも論理的じゃない私

いつも記事が長文となり配慮に欠いていると反省したため、お読みいただく方の時間のコストダウンを図るべく結論を端的に書きます。
私の思考は直観を補助するためにある、故に論理的ではない」


例えば、誰かに「感情型」と「思考型」のどちらに属するかと問われれば、私は感情を表出することを好まず、物事を理詰めで考え判断することから、おそらく思考型と答えるでしょう。しかし、思考型であっても論理的とはあんまり言えません。一般的に、思考型=論理的と結びつけられやすいですが、必ずしも思考=論理的が成立するわけでは無いことを私は知っています。何故なら、私自身が思考型ですが論理的ではないからです。(ほら、すでに論理破綻しているでしょ)

■論理的とは

そもそも論理的とは、どうゆうことでしょう。こうゆうときは辞書を引くに限ります。「きちんと筋道を立てて考える様」を表す。「論理」には「考えや議論などを進めていく筋道」「思考や論証の組み立て」「思考の妥当性が保証される法則や形式」といった意味がある。と書いてあります。どうやら「筋道を立てる」ということらしいのですが、その筋道とは、「ことの首尾を一貫させる。道理にかなうようにする。また、しかるべき手続きを踏む。」とあります。

分解するほどわからなくなりますが、要は、私の思考は首尾一貫性や道理に欠いている。それに尽きます。

■私から論理的を遠ざけるもの⇒認知バイアス

当然、私だって論理的な思考を働かせたり、整然とした文章を書いてみたいと思うことはあります。しかし、出来上がった文章を見ると、まずは自論ありきで、それを補強するために都合の良い情報を引っ張ってきたり、情報を自分に都合よく解釈、曲解しがちな我田引水的内容がほとんどです。一応、その自覚もあるので注釈は毎度つけてみるけれど、いい加減その構造について論理的に思考したほうが良いのではないか、と考えるようになりました。

ということで、私から論理的を遠ざけるものとは何か。それは「認知バイアス」の仕業だという仮説を立てました。何故、そのような仮説を立てたかというと、いわゆる常識的な物事の判断、捉え方と比べ、自分の感じ方、考え方に偏りがあるように感じるからです。つまり、標準からズレさせる何かがあり、そのズレとは認知バイアスなのではないかと思い至りました。と言っても、この標準が絶対に標準かというとそこも絶対ではないし、この仮説(認知バイアスがかかると非論理的となる)の立て方が誤りならば、もうこの時点で論理性を欠いています。しかしながら、高い知性も豊富な知識も持ち合わせない私には、まずは仮説、類推から答えに接近する「仮説思考」という手法を採用し考えを進めてゆくことにします。

■認知バイアスとは

 認知バイアスとは何か。認知とは「心の働き」全般を指す言葉である。心の働きは様々である。物を見たり聞いたり、そこから何かを感じることから、何かを学ぶ、覚えることなどはもちろん認知である。また、見たこと聞いたこと、知っていることを通して何かを考えたり、判断したり、創造・想像するのももちろん認知である。それらを人に伝えるために言語を用いて行うコミュニケーションもまた認知である。
 一方のバイアスとは何だろうか。偏見、固執、先入観、偏った好みなど辞書を引くと出てくる。「バイアスがかかっている」という言い方をよく聞くが、これは先入観にとらわれて物事の一側面にだけ注意が向けられ、その他の側面についての思慮が足りないことを指す。このような次第だから、認知バイアスという言葉は、心の働きの偏り、歪みを指す。(一部略)                          

認知バイアス 心に潜むふしぎな働き 著 鈴木宏昭

本の引用にあるように、「認知バイアス」とは、心の働きの偏り、歪みのことです。そして、この本には代表的な認知バイアスの例が複数紹介されています。そのなかでも次の「確証バイアス」が私から「論理的」を遠ざけている張本人だと特定しました。

引き続き、こちらの本の内容を引用しつつ記述を進めてゆきます。

■確証バイアスとは

確証バイアスとは、人の思考のなかでも推論に潜むバイアスのひとつであり、推論とは与えられた前提から何かの結論を導き出す心の働きのことです。そして、確証バイアスの意味とは、自分が正しいと考えていることに注意を向けがちになってしまうことです。

更に、この確証バイアスには因果関係という概念と関係があります。私たちは世界がでたらめに動いているのではなく、何らかの理由があって動いているという強い信念をもっています。私たちは、ある出来事と別の出来事との間に因果関係を作り出そうとします。しかし、実生活においてはその因果関係は簡単なものではありません。ある出来事が起こるには複数の原因が働いている可能性が高いことが往々にあります。にもかかわらず、私たちは原因を勝手に一つに絞り込み、そこだけに集中してデータを集めることがあります。これもまた確証バイアスの働きによるものと考えられます。

あるものを主張する、言明する行為は、他の色々な可能性があるなかで、その可能性を絞り込むという役割を持ちます。また、可能性を絞り込むことでエントロピー(乱雑さ)は下がります。物事の安定性を是とするとき、主張、言明により可能性を絞り込み、乱雑さを低下させることは適切な方法といえます。

以上、本に書いてあることを参考に考えると、物事の安定性、それを安心感と言い換えても良いのなら、私の場合、確証バイアスとは自身の安心感を得るために用いる「認知的まやかし」に過ぎません。そして私は推測することを特に好むため、推論に潜むといわれる確証バイアスが論理的思考を歪める原因なのではないか、という考えに至りました。

■確証バイアスによって何の安心感を得たいのか

では、確証バイアスを多用することで、私はどのような安心感を得たいのでしょうか。私は、常日頃から物事の背景を読み取ろうとしたり、物事を推察し、コトの因果関係を把握することを好みます。(このような心の働きをユングは内向的直観と名付けました)上記のバイアスに関する説明にもあるように、私にはあらゆる物事はでたらめに働いているのではなく、全てに意味や理由がある、もとい自ら意味を作り出すもんだ、とすら思い込んでいる節があります。そのため、確証バイアスで自分の望む情報を集めたり、解釈することで、自分の考えは正しい、自分が支持する意味は確かに存在するのだ、という安心感を得たい。つまりは、ひらめき、着想、洞察と呼ばれるNi的なものを補強するために確証バイアスを用いているのです。                         

■内向的直観(Ni)に対する信頼というか確信というか妄信                

私は、幼いころからNiが亢進していたので、Niを頼り、Niにすがり生きてきましたし、過剰すぎるNiにほとほと翻弄されつくした感も実際のところ抱いています。それでも、私を形作る中心となる心理機能だと認識している為、このNiを肯定したいし、心の拠り所として信じています。それゆえ、悲しいかな、その信頼性、安定性を獲得するため、それらしい事象やどこかの理論を記憶の片隅だか無意識の領域から掴み取って、自分のイメージするNiに寄せずにはいられないのです。私の確証バイアスの正体とはこんな感じです。               

ただ、そのようなときこそ、客観的、多角的に考える冷静さ、偏りや思い込みによるズレがあれば修正する勇気、より妥当な解があり得る可能性に対し開放的であること、これら振る舞いを欠かさぬよう心がけなければなりません。そうしないと、論理性の欠いた思い込みや目の曇りにより、周囲に負担を強要したり、この身を滅ぼしかねないこともあるからです。そして、これらの振る舞いが、私のメインの心の働きである内向的直観を補助する役割としての思考であると捉えています。                       

■思考は直観を補助する機能でしかない、故に論理的ではない 

ぐるっとまわって結論です。上の小見出しのとおりです。これがもっとハッキリとした思考型の方であれば、論理的であることに重きを置いて思考されるかと思います。また、私のようなNiが偏重気味ではない方であれば、直観と論理的思考を上手にバランス良く働かせているのではないでしょうか。

なお、この結論は、ひとつの仮説から導いた解に過ぎないため、別の仮説を立てたり、その他の可能性から考えを深めればまた別の異なる解が導き出されると思います。結局、明解な解答は打ち出すことが出来ませんでしたが、でもまあ、論理的思考も大切ですが、同様に、ああでもない、こうでもないと考えるプロセスも大切なのかなとも思っています。                          

長文のところ、お目通しをいただきましてどうも有難うございました。      
                        

            


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