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梅棹忠夫 アマチュア思想家宣言

※タイトル写真は大阪府吹田市にある万博記念公園の「太陽の塔」梅棹忠夫先生は大阪記念万博の発起人の一員でありました。

内田樹さんの本に梅棹忠夫先生(ただのファンに過ぎないが尊敬を込め敬称で呼ばせていただく)の「文明の生態史観」に関する記述があり、図書館で偶然に見つけて読んだのが今から10年以上前。そのときの衝撃は未だ忘れられない。また梅棹先生の三高時代の山岳部エピソードを読むにつけ、そのスケールの大きさ、未踏の地を探検するが如く「知の山脈」を踏破した稀有な人生を思い、今もなお全くもって心を揺さぶられる始末である。                     

先日、「note」でフォローをさせていただいている悟塔雛樹さんのとあるつぶやきに「人類学」「民俗学」と並んだワードを見つけてしまった。途端に梅棹先生ブームがリバイバルしてしまい、昔買った書籍をさらい出し、しげしげと読み返しているこの頃である。                   

梅棹先生は、1920年(大正0)に京都で生まれ、第三高校時代に国内外の山を登頂され、その後は京都大学の理学部で動物学を専攻される。戦時中は内蒙古の調査隊の一員として中国大陸を渡られ、モンゴル遊牧民の遊牧生活を研究された。戦後は、大阪万博の開催に尽力されたり、国立民族学博物館の初代館長として、国内の文化行政に携わられ、生涯にわたって精力的に活動を推し進められた。2010年、90歳のとき鬼籍に入られる。

学者然とした堅苦しい理論に終始することなく、文化人類学や民俗学にも精通しながら「情報産業」という言葉を創り出したり、1960年代の初めにはライフスタイルの変化に伴う「妻不要論」という論文を発表するなど、未来を予測する卓越した先見性で多岐にわたる論述を発表されている。また、著名な方々とも活発に対談をされている。作家の司馬遼太郎氏とは30年来の友人であったということからも、既成の学者の枠に当てはまらない、独創的かつ躍動的な知性を身をもって具現化し続けてこられた方である。                          

説明が長くなってしまった。今回は、梅棹忠夫先生の「人となり」を伝えたく、こちらのタイトルにある「アマチュア思想家宣言」(1954年、雑誌「思想の科学」に寄稿)をこの場を借りて紹介をさせていただく。一部省略をしているが梅棹先生の合理的で実用主義的な一面が頓に垣間見れる文章で、私はこの宣言が好きである。                    

「アマチュア思想家宣言」                           
職業的思想は、「思想を論ずる」のが商売である。そこでは一貫性や体系やらが必要だろうが、それにたいしてのアマチュアにとっての「思想」は「つかう」ものである。                              
「思想」をあくまで「つかう」立場でかんがえれば思考や行動は自由で柔軟なものになる。なにも特定の「思想」に忠義立てするにはおよばない。しょせん「プロ的体系主義」と「思想つかい」のアマチュアとは違うのである。  
アマチュアは既成のあれこれの体系のなかから都合のいいところをとりだして組み合わせてつかえばよい。「ばらばら」にしたら意味を失うのは体系のほうであって要素のほうは組み替えたらちゃんとつかえるのでありべつだんプロの真似をするにはおよばない。

1954年 雑誌「思想の科学」

私は梅棹先生のこの宣言にすっかりあてられ、以降、自分の考えに都合の良い知識や思考をくっつけては好き勝手に解釈する悪癖を身に付けてしまっており、そこは多少の反省の余地を要するところである。             

それにしても。これほどに小気味よい文章があるだろうか。梅棹先生は、戦後の日本人にむかって「思想のつかい手」となるよう宣言という言葉を用いて発破をかけていたのである。日本人のひとりひとりが自分の頭で思考し、思想をつかいこなすことで、日常を創造性に拓けたこころ豊かなものとすることを強く促されていたのではないだろうか。文化の在り方においても、文化は思想をつかうことへの一端を担うものであること、そのように捉えられていたのではないだろうか。あくまでイメージだが私のなかでは「アマチュア思想家宣言」をそのようなメッセージとして受け取っている。

そして私は梅棹忠夫先生の言葉にアジられて今日も意気揚々に思想というか妄想を企てるのである。


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