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「人間万事塞翁が馬」 (短編小説)
その国は、昔から伝説として語り継がれてきたという。
中世ヨーロッパのある文献の記述によると、魔女狩りの公開処刑が行われる広場の上空に、雲の切れ間からこつ然とその姿を現した。
騒然とする観衆に行政官も執行を取り止めたと記されている。
その浮島のような国。
そこに行ったという男がいる。
彼の名はヨハン・ヴォルフガング。
1900年、パリで行われる万国博覧会にドイツから飛行船技師として参加する予定だった。
普仏戦争で関係が悪化した両国の友好の橋渡し役として選ばれたのである。
当時、ドイツの最新技術を結集して開発された小型飛行船。
開催中の会場に華々しく降り立つため、ドイツ飛行科学庁を意気揚々と出発した。
ヨハンはこの計画が終わると、かねてから交際を重ねてきた恋人ハンナとの結婚が待っていた。
操舵室に飾ったハンナの写真を熱い想いで見つめ、舵を握るのであった。
航行二日目。
春には不釣り合いともいえる巨大な積乱雲に捕まってしまった。
鉛を気体にしたかのような暗い雲の中を、時折疾走る雷を読み避けながら慎重に進んだという。
全長5mほどの、ふたつの葉巻型の本体に挟まれたコクピット。
アルファベットの「H」を模した機体は、日本の竹のフレームにアルミ泊を貼って軽量化していた。
それがアダになった。
雷の直撃を受け、炭化した竹が燃え始めたのだ。
雲の中の嵐に揉まれながら、予備のヘリウムガスの計算をしているところまでしか記憶がない……。
目覚めたのは、石畳の上だった。
一部の飛行船の残骸と共に、白い路面に倒れていた。
なにやら重厚な足音。
石畳に頬を付けて倒れていたヨハンの視界に、何かの動物の太い足が見えた。
「大丈夫かね、君?」
低く落ち着いて響く声に、どこか安堵する。
えぇ、と応えて身を起こしてみると、そこにはサイがいた。
そう、サイしかいなかった。
二本脚で歩き、言葉をしゃべるサイしか。
夢なのか……。
確か落雷を受けて……。
それなら私は死んだのか……。
珍しいものを見るような、そのサイ人間がどんどん集まってきて、周辺は賑やかな低い声に石畳を踏みしめる重い音が満たしていた。
鼻先の角部分が貫通している金属マスクの武装した近衛兵に連行されながら、この国のしきたりを聴いた。
王制を引くこの国で何でも決定権をもっているのは、最も強く美しい姿を持つという王様だという。
強いというのが、この国の最も重要なファクターらしい。
多くのサイの中で、独り人間の姿をする自分はどのように思われているのだろうと、強靭な六頭の馬が引く護送車で考えていた。
謁見の間。
ひれ伏した従属の前に、その高い王座はあった。
なぜか分厚いベールで遮られて、頭を下げることを義務付けられたものは王の声にしか目の当たりに出来ない。
「下界より来られし者よ、近く」
他のサイとは違い、どこか細く高い声。
ヨハンは顔を上げ、従者に促されると五段程度高い王座の前にヒザを付いた。
「人間、下賤の存在であるお前は、この国にいてはならない。 終生の幽閉命じる。 この者を牢へ!」
ヨハンは愕然とした。
私が何をした?
私は万国博覧会に向かわなければならない。
祖国ドイツの威信がかかっているのだから。
何より婚約者ハンナを残して、こんな化け物の世界で牢屋だと? 理不尽過ぎる。
「ま 待ってください! 私は帰らなければ……」
ヨハンは気がつくと、やり場ない激情を燃料に王座を駆け上がっていた。
近衛兵が武器を手に駆け寄ろうとも、従者がたじろいて罵声を浴びせようとも、ヨハンには届かなかった。
帰らなければ。
王に直談判するべく王座のベールに手をかけ立ち入ろうと少し開けた。
そこには金の台座に座って、煌びやかな服に包まれた華奢な姿の王がいた。
細い脚。 スラリとした鼻筋。 サラサラとした後ろ髪。
いや、たてがみというべきか。
ヨハンの知るところによると、人間界においてそれは『馬』と呼ばれるものだった。
サイの国の頂点、王様は馬だったのである。
慌てて玉座に集まる近衛兵に、ゆっくりと力強くベールを閉じた王は怒りを隠そうともせずに叫んだ。
「……貴様、そんなに帰りたいか。 この下賤の輩に刑の執行を!」
屈強な近衛兵に取り押さえられながらヨハンは何故か、ハンナの後ろ姿しか思い出せなかったことが不思議だった。
浮島の街外れ。
下界にゴミを投棄する荒れた場所。
石の橋が片方が崩れ、空中に突き出したような型になっている。
ヨハンはそこにいた。
足下には遥かに拡がる青空と雲の群れ。
その足には何か見たことのないような植物の蔓が結ばれていた。
「人間よ、わが王の命によりお前を下界に帰す。 われわれは飛ぶということをしない。 よってお前はそこから下りてもらう」
やはり……。
「心優しい王は、お前の身を案じてノビカズラの蔦を結ぶことを許された。 早く帰りたいのだろう。 さぁ 行け」
何となく気配は感じていた結果が急に肩にのし掛かって来たが、足元から全身に走る鳥肌が怠さを打ち消した。
サイの近衛兵が持つ4メートルはあろうかという槍に包囲され、切っ先がヨハンを壊れた橋の突端に追いやっていく。
ここにいる兵達は自分達の象徴である王が、馬車を引かせているのと同じ馬なのだという事実を知らないでいるのだろう。
あまりに滑稽だ。
サイの民衆も、姿を隠してまで君臨している馬の王様も。
何より、それらに追い詰められ、バンジージャンプを強要されている自分。
ヨハンは声を出して笑っていた。
徐々に大きく、そして悲しく……。
刑の執行を見学に集まっていたサイの民衆も、ヨハンの笑いにざわついている。
ふわ。
虚空に身を投げ出したヨハンは、不思議と恐怖心がないことに気がついた。
風圧でバタバタとはためくシャツや、目尻から飛び去る涙をまるで夕食を待つ子供のように受け入れた。
ハンナに少しでも近づける。
急激な下降のスピードで視界が狭くなる中、ヨハンはまた笑っていた。
「人間の私が、バンジージャンプを強いられたのがサイの王国の王様。 実はその王様は、馬なのだ」
そんなことはどうでも良かった。
帰れる。 ハンナの元に帰れる。
薄れ行こうとする意識の中、そのことがヨハンの気を確かにしたのだった。
齢100歳は越えようとするヨハンの口から聞かされた話に、記者たちは俄かに信用出来なかった。
何故なら誰がどう見ても、ヨハンは二十代そこそこの青年なのだから。
まるで高所から叩きつけられたような外傷のため、車椅子に座り語るその青年を、記者達は憐れむような視線で取材ノートを閉じるのだった。
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「にんげんばんじ、さいおうがうま」
って聞いて、妄想が暴走したんですがどうですかね……
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