源氏物語より~『紫の姫の物語』その2
2 弘徽殿の女御の章
日が暮れても寒くはなく、風に甘い香りが含まれている春の宵。内裏の中心、ここ清涼殿では、気軽な管弦の遊びが行われている。
「せっかくの夜だ、誰か舞わぬか」
主上の仰せに一座はざわめき、いつも通り、期待の視線はただ一人の人物に集まった。
「ここはやはり、光君が」
「そうですわ、舞って下さいませ」
「ささ、こちらへ、こちらへ」
何の催しであっても、この青年がいないと物足りない、と皆が言う。天に愛され、何もかもを備えて生まれた皇子。
それは、わたくしも認める。みめ麗しいだけでなく、教養も品格も備えている。宮中の仕事もできる。ただ、
(自分はどこでも、いつでも、皆に愛されて当然)
という傲慢に毒されているだけ。
多くの者には、その傲慢が見えない。子犬のように人なつこい、甘い微笑みに蕩かされてしまうから。けれど、わたくしにはわかる。あの者の母親が、そっくりの傲慢さを持っていたから。それは、
(愛されて当然)
という思い上がり。
いいえ、あれは、自分が思い上がっていることすら知らない、呑気な幼稚さだった。自分が幸せだから、人も全て幸せなものと思い込んでいたのだろう。
美しく生まれついた者は、悪意がなくても、その鈍感さのために人を傷つける。その報いで、あの女は死んだのだ。
その女の息子が、ゆったりと主上の前に進み出た。華やかな桜の直衣姿で、
「何の支度もしておりませんが」
と殊勝げに平伏してみせるのも憎らしい。自分が皆に望まれ、一番に舞うことが当たり前、と思っているくせに。
他の臣下たちが堅苦しい黒の束帯姿でかしこまっている時も、しばしば自分一人、優雅な直衣姿で通している。臣籍に下されたにもかかわらず、いまだ皇子の特権をひけらかして暮らしているのだ。
「よいよい、そのままで」
鷹揚に喜ぶ主上も主上。自分よりはるかに人気のある異母弟に、何の嫉妬も悪意も抱いていないのだから。
桐壺帝の譲位によって誕生した、この朱雀帝は、まだ何の貫禄も知恵もない、人がいいだけの若者だった。このわたくしから、なぜこう、間延びした息子が生まれたのか。
楽人たちが演奏を始める。御簾の陰から、わたくしも源氏の君の舞いを見物した。ゆるく袖を翻し、女物の檜扇を優雅にさばく。挿頭にしているのは、今が盛りの藤の花。
確かにりりしく、際立って美しい。慣れたことであるから、舞いにも余裕がある。闇に燃えさかる幾つもの篝火を背景にして、まるで夢幻の舞いのよう。
光り輝く君、と女房たちが熱を上げるのも無理はない。実家の妹たちですら、わたくしに聞こえない場所では、光君、光君と、くすくす、そわそわ、噂話に加わっている。
あの方も在位中、ずっとこの御子を溺愛なさっていた。それは、帝の御位を降り、桐壺院と呼ばれるようになった今も変わらない。
世間の者は皆、桐壺院に愛される光君をうらやみ、もてはやす。花の宴も月見の宴も、光君がいなくては始まらない。
わたくしの息子は、帝という至尊の地位に昇っても、まるで引き立て役。
そして、そのことを一向に気にしないほど、光り輝く異母弟が可愛くて仕方ない。光君が御前に伺候すれば、すぐさま側近くへ召して話し込み、なかなか退出させたがらない。世間では、そのさまを苦笑と憐憫とで語っているというのに。
いっそ、子供のうちに殺しておくのだった。何もわからないうち、母親と一緒に死んでいればよかったのに。
***
――あれはもう、二十年以上も昔のことになる。
当時のわたくしは、弘徽殿の女御と呼ばれ、実家の右大臣家の権勢を後ろ盾にして、後宮随一の寵愛を受けていた。宮中のどんな行事にも、一番いい席が用意される。暑さにつけ、寒さにつけ、主上さまはお優しく気遣って下さる。
雷が恐ろしく鳴る晩には、必ずお見舞いに来て下さるものだから、わたくしはどんな風雨の時でも、心細い思いをしなくて済んだ。むしろ、お肩にすがりついて甘えられることが楽しみだったほど。
そして、幸せなわたくしが得意の絶頂に立ったのは、皇子を産んだ時。
この子が東宮に立つのは、まず間違いのないところ。
自分でもそう思い、周りにもそう言われ、安心しきっていた。つまり、わたくしは国母の地位を約束されたのだ。愛し、愛されて和子を産み、その子が将来の帝になるのだから、これ以上幸せな女が、この世のどこにいるだろう。
ところが、実家で療養しているうちに、おかしな噂が伝わってきた。主上さまが、新しく後宮に召した女を、いたくお気に入りだというのである。
桐壺の局に入れられたその女は、たいした身分の娘ではないが、光り輝くように美しく、主上さまは夢中になられて、毎日のように行き来しておいでだとか。
正直、わずかな不安は湧いたものの、わたくしはまだ、自分の胸をなだめることができた。
(わたくしが宿下がりをしている間、手持ち無沙汰でいらっしゃるからよ。わたくしが内裏に戻りさえすれば、そんな女、かすんでしまうわ)
その頃のわたくしもまた、若くて傲慢だった。実家は右大臣家。各地に広大な荘園を持ち、そこから上がる産物は莫大なもの。一族郎党は数多く、いかなる官職も思いのまま。その中で一の姫として育てられた身に、何の怖いものがあるだろう。
ところが、着飾って女房たちを引き連れ、意気揚々と宮中へ戻ったわたくしは、冷厳たる現実に打ちのめされた。神の恩寵というものを、目の当たりにしたのだ。
――この女には、どんな地位も財産も必要ない。ただ、そこにいるだけでいい。
桐壺の更衣は、まるで朝露を帯びた大輪の牡丹のように、あでやかで瑞々しい女だったのだ。
女のわたくしでも衝撃を受けるのだから、まして殿方ならば。
しかも、とりすました美しさではない。こぼれるような愛らしさ、子供のような無邪気さに恵まれている。それでいて、笑っても、困っても、すねて顔をしかめても、決して崩れない品の良さ。
いったいどうしたら、こんな天女のような女が地上で育つのか。
挨拶に来られ、目の前で淑やかに頭を下げられた時、欠点を数え立てようと待ち構えていたわたくしでさえ、天に愛された者、と認めてしまったほど。美貌自慢や才気自慢の若い女房たちも、軒並みうなだれてしまったものだ。
おまけに、その女は嬉しそうに、にこにこして言う。
「主上さまがお優しくして下さるので、教養の乏しいわたくしでも、何とか勤まっております。弘徽殿さまには、宮中のしきたりなど、色々と教えて頂くようにと言われて参りました。ふつつか者でございますが、どうか、よろしくお願いいたします」
自分は誰にでも愛され、歓迎されるものだと思い込んでいるからこその、ゆとり。人を踏み付けにしていることを悟らない、天女の傲慢。
その時から、わたくしの苦しみの日々が始まった。
「弘徽殿や、立派な皇子を産んでくれて、ありがとう。あとはゆっくり、躰をいたわっておくれ」
と、あの方に優しく言われたのはいいけれど、その後、いくら経っても、いっこうに夜のお召しがない。
最初のうちは、産後の身をいたわって下さるせい、と思っていたけれど、半年経っても、一年経っても、わたくしは一人で夜を過ごすだけ。前に姫を産んだ時は、すぐにお召しが復活したのに。
(もしや、皇子が産まれるまでは、と、義務感で抱いて下さっていたの!?)
頭上で雷が轟いても、激しい野分が夜通し吹き荒れても、もはやお見舞いにも来て下さらない。ただ、代理の者を遣わされるだけ。
女房たちは互いに抱き合ったり、頭から衣をかぶって震えたりしているけれど、わたくしは誰の肩にすがればいいの。
朝になって、あたりが晴れ上がってから立ち寄られても、遅いのよ。おまけに、通り一遍の挨拶だけで、すぐに立ち去ってしまわれるし。
寂しさ、もどかしさで苛々した。何をしても心が晴れない。食べ物の味もしなくなった。むろん、周囲には大勢の女房が控え、皇子を預けた乳母も間近にいるから、傍目には、華やかで楽しげな暮らしに見えただろうけれど。
わたくしを置き去りにして、あの方は、ひたすら桐壺の更衣の元へ通い詰めていらっしゃる。ご自分の寝所にお呼びになるのも、桐壺の更衣だけ。嵐の晩に抱き寄せて守るのも、あの女だけ。
初めて思い知った。愛する人に、愛し返してはもらえない苦痛。
いいえ、愛など最初からなかったのだと思い知る屈辱。
主上さまはわたくしに、皇子の母としての敬意を払って下さったけれど、それは、右大臣家への配慮にすぎない。わたくしには元々、女としての魅力はなかったのだ。
他にも女御や更衣、美しい尚侍や典侍はいたけれど、もはや皆呆然として、桐壺の更衣が一身に浴びる寵愛を、遠く眺めるだけだった。悔しまぎれの悪口を言おうにも、桐壺の更衣自身には何の悪意もないのだから、嫉んだ者が醜く見えるだけ。
わたくしも他の女たちも、表面上はじっと耐えていた。ただ、内心では煮えたぎる思いを重ねていた。どこかの馬鹿者が、
『玄宗皇帝と楊貴妃』
の譬えを持ち出した時は、
(そらきた)
と思いつつも、その前例の不吉さに耐えきれず、言い出した者に石を投げてやろうかと思ったほど。
女に溺れて国を傾けた愚かな皇帝の運命が、わが帝の上に、再現されるとでも言うつもりか。
――英明であった皇帝が、老いてから若い女に狂い、統治者としての責務をないがしろにし、ついには大規模な反乱を招く。そして、命からがら長安の都から逃げる。
反乱には別の要因もあっただろうが、楊貴妃一族の偏重が理由の一つであったことは間違いあるまい。逃亡の途中、一国の支配者を腑抜けにした迷惑きまわまりない女が、護衛の兵士たちの要求で処刑されたのは、当然の報いというもの。
わたくしはどうしても、想像してしまう。帝国各地から後宮に集められた大勢の女たちは、いったいどんな気持ちで、楊貴妃一人の栄華を眺めていただろう。彼女の処刑を聞いて溜飲を下げると同時に、
(どんな名君でも、やはり男というものは、根底では愚かな生き物)
(若い時代の業績を、晩年で台無しにして)
と蔑んだのではないだろうか。
(わが帝は、そこまでひどくない)
と思いたいものの、やはり、主上さまの溺れ方は尋常ではなかった。もはや『微笑ましい』を通り越して、『見苦しい』と評すべき域に達していた。
「更衣や、明日はお忍びで、あやめの花を見に行こう」
「更衣や、今宵は蛍の宴を開こうではないか」
「更衣や、そろそろ山の紅葉が見頃だそうだよ」
「雪を見ながら、一献傾けようではないか」
声も笑顔も、まさしく、愛しさで蕩けている。さすがに政務はおろそかにされないが、それ以外の時間は、全て桐壺の更衣のために割いておられる。
(そうなの。それほどに嬉しいものなの。比翼連理たる相手を見つけたことは)
わたくしは弘徽殿の局から、じっと二人を見据えていた。それでは、わたくしが主上さまに恋されたことは、ただの一度もなかったのだ。わたくしに対してはいつも、冷静で落ち着いた、他人行儀な態度であられたものね。
密かな自嘲、苦い涙はやがて、
(仕方がないわ。もう、わたくしにはどうしようもない)
というあきらめに変わっていった。情熱的な恋愛というのは、やはり、美男美女のものなのだ。
右大臣家の姫という身分を脇にのけて、冷静に鏡を見れば、わたくしはごく平凡な女。わたくしの側は、長いこと、教養高い美男であられる主上さまに憧れ、一途にお慕いしていたけれど。
こうまで露骨に掌を返されると、力が抜けていく。わたくしはもう二度と、熱い想いなど抱くことはないだろう。
そして、それでいいのだと思い定めた。わたくしには、なすべき務めがある。
(この皇子を、立派な帝に育て上げることよ)
さすがに主上さまも、わたくしの息子を、東宮としてお認めになるほかなかったから。このまま何事もなければ、この子は確実に将来の帝。
問題があるとすれば、国母になるわたくしの存在が、ないがしろにされていることだった。主上さまが、わたくしの住む弘徽殿の前を素通りなさる度、
(今日もだめだったわ)
(お可哀想な女御さま)
と、お付きの女房たちから、同情の視線を向けられてしまうのだ。
わたくしは新しい物語を読むふりをしたり、実家の妹たちに文を書くふりをしたりしていたけれど、内心では、恥辱で火がつきそうだった。女房たちの噂話は、燎原の火よりも速く都を巡る。皇子を産んだらもう用済みで、顧みられない女と、都中で噂されているのは間違いない。
主上さまが、せめて十日に一度でいいから、わたくしを呼んで下さればいいのに。そもそも、このままでは、次の子を身籠る可能性すらないではないか。
わたくしは既に姫を産んでいたけれど、その子たちはもう大きく、それぞれの女房たちに取り巻かれていて、距離があった。姫たちが幼かった頃、わたくしは皇子を授かることに心を奪われていたから、
(また姫なの)
と思い、たいして構ってもやらなかった、という悔いが生じている。東宮もまた、お付きに手厚く取り巻かれている分、わたくしの出番は少ない。
手持ち無沙汰になった今こそ、可愛い娘が欲しい、という気持ちになっていた。娘と人形遊びをし、手習いを見てやり、ためになる物語を聞かせてやりたい。年頃になったら、美しく飾り立てて、よい殿御を探してやりたい。
幼い頃から手元で可愛がれば、大きくなっても、わたくしを頼ってくれるだろう。上の娘たちのように、乳母にばかり懐いて、わたくしにはよそよそしい、ということにはならないように育てるわ。
それなのに、いくら待っても夜のお召しがないのでは、懐妊などありえないではないか。
もちろん、あの方に悪気はない。ただ、他の女の存在など、忘れ果てているだけ。じっと待ち続けている女たちの部屋の前を素通りして、桐壺の更衣の所へ通う。毎日、毎日。
夜には、あの女がお召しを受けて、いそいそと清涼殿に向かう。
何よりも、あの女の賜った場所が悪かった。淑景舎、すなわち桐壺というのは、主上さまのおられる清涼殿からは、最も遠い場所。行き来するには、必ず、他の女たちの局の前を通らねばならない。
自分の殿舎の前を、唯一無二の殿御に素通りされ、また、あの女がいそいそとお召しを受ける姿を毎晩のように見せつけられて、他の女御、更衣たちも、どんなにか悔しかっただろう。いかに優しい女でも、慎ましい女でも、心の底では、
(あの女さえいなければ)
と思っていたはずだ。人間というのは、弱いもの。妬んでも無駄とわかっていても、なお、自分の心が止められない。
やがて内裏全体に、
(桐壺の更衣、憎し)
という空気が燃え広がった。そして、その気持ちを形にしたのが、忠義者の女房たちである。自分たちの仕える女主人が忘れ去られ、苦い涙に明け暮れるのは、いったい誰のせいなのか。
雪の降る寒い日に、通らねばならぬ廊下の両端で、示し合わせて扉を閉めてしまい、あの女の一行を立ち往生させる。彼女たちが人を呼び、戸を叩いて助けを求めても、聞こえぬふりで閉じ込めておく。
またある時は、一行の通り道に汚物を撒き、大掃除しなければ通行できないようにする。彼女たちが遠回りして清涼殿に向かおうとすれば、そこにも汚物が撒かれているという寸法。
あるいは、あの女の局に、夜中、蛇や蛙を放り投げる。簀子縁の下に、猫や犬の死骸を押し込んでおく。必要な炭や油を届けるのを、後回し、後回しにする。
そのつもりになれば、有能な女房たちはどれほどでも、意地悪の手管を考えつくものだった。みんながぐるになれば、証拠など何も残らない。
(えげつないやり方……)
とは思ったけれど、わたくしは知らん顔していた。あちこちの局の女房たちが、それぞれ勝手にしていること。女たちの筆頭の地位にあるとはいえ、このわたくしが何か命じたわけではない。
(早く気付くといいわ。自分が、他の女たちを踏み付けにしていること。非を悟って、主上さまにおっしゃい。せめて、お召しは一日おきにして、他の晩は他の女たちを順番に呼んで下さるように)
けれど、桐壺の更衣は理解しなかった。自分がなぜ、繰り返し意地悪をされるのか。
(怖いわ。みんなどうして、わたくしを嫌うのかしら。わたくしは誰にも、何の悪いこともしていないのに)
呆然として、そう思っていただけらしい。
人の悪意が理解できないというのは、善良というよりも馬鹿なのだ。世の中、悪気がなければ何でも許される、というものではない。
そのうち、あの女の飼っていた猫が死んだ。噂では、まだ若い猫なのに、血を吐いてのたうち回ったとか。それが毒殺だと言う者もあり、あの女はようやく震え上がった。
(もうだめ。怖い。家に帰りたい)
お付きの女房たちにも、しっかりした者がいなかったのが不運。知恵のある者がいれば、まだわたくしに頭を下げ、庇護を頼むという道もあったのに。
それでも、あの女は、主上さまに優しく慰められ、
「猫は病気だったのだよ。わたしが付いているのに、何の怖いことがあるものか」
と保証され、涙ぐみながら、いつまでもすがりついて甘えていたとか。
美しく愛らしいが、愚かな女。自分が他の女の幸せを全て奪っていると、なぜ、間に合ううちに悟らないのか。
この世を支配しているのが男たちであるならば、女にはなおさら、身近な男を操る器量が必要なのに。
そうでなければ、結局のところ、男たちも不幸になる。彼らは、女よりもなお愚かなのだから。
そうしてついに、あの女は懐妊した。月が満ちて産まれたのは、玉のような皇子。あの方は心底喜ばれ、毎日のように、自らお抱きになってあやされるという。
わたくしはもう、女として愛されることも、次の子供を授かることもあきらめていたけれど、新たな不安が頭をもたげた。
もしや、あの女の息子を、次の帝になさるおつもりでは。
わたくしの息子は、既に東宮としての教育を受けているけれど、主上さまのあの様子では、どう変心なさるかわからない。たとえば、人望の厚い左大臣を、あの女の皇子の後見に据えれば、相当な無理も通せるというもの。事実、左大臣を幾度も呼んでは、皇子の将来について、あれこれ相談なさっているという。
それだけは、それだけは許せない。一度は約束した帝位を、わたくしの息子から取り上げるなんて。
――死ねばいいのに。
初めて、心の底からそう思った。あの女、死んでくれればいいのに。
そうしたら、あの方も目が覚めるはず。自分が重んじるべきは誰なのか、思い出されるだろう。
だからといって、わたくしが自分の口で、毒を盛れと命じたことはない。そんな下劣なことを平然と口にするほど、わたくしは落ちぶれてはいない。ただ、
「猫ではなく、あの女に薬を飲ませればよかったのに」
くらいのことは、そっとつぶやいたかもしれないけれど。
それを聞いた誰かが、気を利かせたかもしれない。あるいは、実家の父や兄弟たちが、何か手配したかもしれない。もしくは、他の女御か更衣の誰かが、忠実な女房に命じたかもしれない。
とにかく、あの女は原因不明の不調で寝付くようになり、どこがどう悪いというわけでもないのに、日に日に衰弱していった。咲き誇っていた花が、寒さに遭ってしおれ、枯れゆくように。
「お願いでございます。どうか、里に帰らせて下さいまし。母の元で休みとうございます」
あの女は幾度も、病床から主上さまに願ったという。その都度、恋する男はそれを退けた。
「退出はならぬ。病はここで治すのだ。医師もいれば、大陸渡来の薬もある。高徳の僧たちも付いている。治せないはずがあるものか。わたしを一人にしないでおくれ。宮中にどれほど女人がいても、わたしにとって、女はそなただけなのだ」
その言葉を人づてに聞いた時、わたくしは、はっきりと見切りをつけた。
何という愚かな男。頭も上がらぬほど病の重い女に、なお甘えようとは。
実家へ帰してやれば、そこでゆっくり養生でき、持ち直したかもしれないのに。
そもそも、帝というものは、臣下の全て、民の全てに公平に慈愛を注ぐもの。その責務を忘れ、一人の女に溺れるような真似をするから、こういう結果を招く。いわば天罰。
わたくしは笑った。
もう何年もなかった、晴れやかな笑い。
愚か者は、その報いを受けたのだ。最も愛した者を、自らの愚かさのために失うのだから。
やがて、桐壺の更衣は死んだ。恋に狂った男は嘆き悲しんだが、天命はどうしようもない。残された息子は源氏の姓を賜り、臣下に降ろされた。
わたくしは勝った、はずだった。
帝位に即いた息子が、間抜けのお人好しでなければ。
その他大勢と同様に、頬を染めて光君を崇拝しているという、不愉快な事実がなければ。
だが、まあ、それはよいとしよう。わたくしの息子が間延びしているのは、まだ、苦労や苦難というものを知らないからだ。わたくしが大切に守り続けてきたことが、そういう結果をもたらした。
これがたぶん、わたくしの受けた罰。たとえ、直接殺したのでなくとも、更衣の死を願ったことは事実なのだから。
問題は、あの人がまだ懲りていないこと。次の帝には、藤壺の息子を立てるというのだから。
***
桐壺の更衣を失った後、あの人は長いこと悲しみに沈んでいた。忘れ形見の幼い子供くらいしか、心を慰めるもののない暮らし。わたくしももう、あえて近付いて慰めようとは思っていなかったから。
ところが、世の中にはお節介な者がいる。よりによって、あの更衣そっくりの美女を捜し出してきて、入内させたのだ。
あの人の喜ぶまいことか。さっそく女御の位を与え、藤壺の局に入れてのご寵愛。
今度ばかりは、意地悪したくとも、誰にも手出しができなかった。何といっても、先の帝の皇女という、高い身分の女だったから。
軽い嫌がらせ程度はできても、局に生きた蛇を放り込んだり、通り道に汚物を撒いたりという露骨な真似は、とても無理。お付きの女房たちもしっかり者が多かったし、あの人も用心深くなっていた。よこしまな行為があれば、下手人も黒幕も、ただでは済まなかっただろう。
(いいわ、好きなだけ夢中になっていなさい)
もはや、あの人が誰を寵愛しようと、どうでもいい。
でも、藤壺が産んだ息子を東宮に据えたことだけは、許さない。
これでは、わたくしの息子に皇子が生まれても、そちらの血筋は帝位に即けないではないの。
どう繕ったところで、わたくしの息子より、藤壺の息子の方が可愛いことが見えているのよ。光君にそっくりという評判の、世にも可愛い息子がね。
藤壺自身はきわめて賢い女で、桐壺の更衣の末路から教訓を読み取り、後宮全体に対する気配りを忘れないけれど、それでも、あの人の心を奪った女というだけで、わたくしには気に入らない。機会があれば、引きずり下ろすことに躊躇はない。
美しい女などに、何がわかる。
背の君に愛されたくて、懸命に務めても、尽くしても、無視される屈辱、そなたは知らないではないか。
普通の女なら、愛の冷めた夫と離別することもできるし、他の男を引き入れることも認められるけれど、夫が帝であっては、それも不可能。
わたくしにできるのは、ただ、夫を軽蔑し、夫の愛する女を憎むことだけ。
こういうわたくしを、あの人は、
(心の冷たい、恐ろしい女)
と思っているようだけれど、それは違う。男は守ってくれない、あてにならないと、身に染みてわかったからにすぎない。
帝だろうと下人だろうと、男というものは、若くて美しい女が好き。いったん新しい女に夢中になったら、古い女など、どうでもよくなる。興味のない女が泣こうと苦しもうと、何の関係もない出来事。
構いませんとも、それが男の自然なのだから。
ただし、その自然に対抗するため、こちらも強く、猛々しくならせていただくわ。でなければ、女は自分の身を守ることも、自分の子供を守ることもできないのだから。
***
宴の半ばで、わたくしは女房たちを連れ、自分の局に引き上げた。源氏の君の舞いは、もうたくさん。
渡殿の途中、真っ暗な空に光るたくさんの星を見上げて、とうの昔に死んだ女に語りかけた。
(あなたは満足かしらね、更衣。あなたの息子は、わたくしの息子に勝ったのよ)
しかし、わたくしの記憶にある女は、寂しげに微笑むだけだ。
確かに、哀れな女ではあった。若い身空で、幼い息子を残して死ぬのは、さぞかし心残りだったことだろう。
飛び抜けた美女に生まれるということは、実は、不幸なことなのかもしれない。目立ちすぎて、逃げ道がない。権力者に差し出され、そこで栄華を極めたようでも、しょせんは飼い猫。真の自由はない。
いいえ、それは、この世の女の全てに言えること。
このわたくしだって、右大臣家の一の姫として生まれた時から、将来は入内と決められていた。御簾と几帳の奥に押し込められ、庭に降りることさえ滅多に許されず、若い女房が流行りの恋物語を手に入れてくれても、軽薄なものはいけませんと、乳母に取り上げられてしまう。
殿方からの軽い恋文の類いも、全て遮断されていた。普通の姫ならば、恋文に胸をときめかせることも、返事を書くこともできるのに。
生涯、ただ一人の殿方しか知らず、それも、皇子を授かるまでの期間、礼儀正しい、お義理半分の交わりがあっただけ。若い女房たちが、物陰でひそひそ、くすくす、ささやき交わす言葉の意味が、わたくしには、よくわからないままなのだ。
『――とうとう会得したわ。極まるって、ああいうことだったのね』
わたくしは、たぶん、それを知らない。男と女が真に求め合えば、到達する境地らしいのだけれど。
これを知らなければ、女に生まれた甲斐がないという忘我の極致、それはいったいどんなもの?
誰に尋ねることもできない。それは、何人もの男と付き合って経験を広げるか、一人の男ととことん付き合って経験を深めるかしていく中で、ようやく得られるものだという。わたくしには、どちらの機会もなかったのだもの。
何という、つまらない人生だろう。
宮中に君臨し、舶来の綾錦に飾られていても、女として燃焼しきらなかった心残りにあぶられている。
中級か下級の貴族の家に生まれ、女房勤めでもしていたら、どれだけ面白い人生だったろうか。女房仲間で寺社詣でをしたり、馬や船で旅に出たり、殿方たちの品定めをしたり。
それでも、人に愚痴るつもりはない。現在のわたくしは、この国で最高位にある女。
実家の父も、高い地位にある兄弟たちも、国母であるわたくしの意見に、正面からは逆らえない。
帝ですら、母であるわたくしには、頭が上がらない。
退位なさった桐壺の院を除けば、わたくしの邪魔ができる者は、この世に誰もいないのだ。
そうして近頃、桐壺院は、病で寝込まれることが多くなっているという。同じ御所で暮らす藤壺が(今では生意気にも、中宮という地位を与えられている。それは本来なら、わたくしが得るはずの称号だったのに)、付ききりで看護しているというが、もしかしたら、若い女を可愛がりすぎた報いかもしれない。だとしたら、いい気味というもの。
それにひきかえ、わたくしは健康そのものだった。
髪には白いものが混じっているけれど、歯は丈夫だし食欲もある。夜はぐっすり眠れるし、朝の目覚めも清々しい。人生は、長く生きた者の勝ち。
院が先に亡くなったら、あの目障りな光君をどうしてやろうか、藤壺とその息子をどう蹴落としてやろうか、日々楽しく計画を練っている。
――あなたは、わたくしを笑うかしら。ねえ、更衣。いつまで、そんな愚かしい張り合いを続けるつもりかと。
でもねえ、これがわたくしの生き甲斐なの。愛した方に愛されなかったわたくしには、権力を握る楽しみしかないのよ。
恐ろしい女で結構。強く賢くなければ、人に恐れられることはできない。恐れられない女は、利用され、踏み付けにされるのみ。
もはや、雷も野分も何とも思わない。むしろ、爽快に感じるほど。好きなだけ荒れ狂い、皆を怯えさせるがいいわ。
わたくしは何にでも、ただ一人で立ち向かう。
更衣、あなたは若い盛りに、花のように散ったけれど、わたくしはしぶとく、岩のように長生きしてみせる。木花之佐久夜毘売に対する岩長比売のようにね。そして、わたくしの血を引く者たちを繁栄させてみせる。
何か恨み言を言いたかったら、わたくしがそちらに行った時にしてちょうだいね。受けて立つわ。その時を、今から楽しみにしているから。
『紫の姫の物語』その3に続く
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