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短編小説『お父さん、また来てね』

 夜、ベッド脇の椅子で本を読んでいて、ふと気がついた。ベッドの向こう側、壁との間の狭い隙間に、パジャマ姿の父が落ち込んで、もぞもぞ動いている。何とかして起き上がりたいのだが、弱った手足に力が入らず、ひっくり返った亀のように、虚しく壁をこすり、もがいているだけなのだ。

「お父さん、何やってるの」

 父の手足は、枯れ木のようだ。わずかな白い髪が綿毛のようにふわふわしている頭は、骨格に乾いた皮膚が張りついているだけで、ほとんどしゃれこうべのようなもの。長いこと点滴で生かされてきたために、極限まで痩せてしまっている。

 ただ、黒くて丸い目には、まだ生来の愛嬌があり、

(なんで、こうなっているのかなあ)

 と自分で不思議に思っているのがわかる。

(なんで、こんな隙間にいるんだろ)

(なんで、起きられないんだろ)

(なんで、声が出ないんだろ)

 いいのよ、大丈夫。わたしがいるからね。

「さあ、起こすわよ。よっこらしょ」

 ミイラのような父をふわりと抱え上げ、ついでに、トイレまで支えていった。

「寝る前に、トイレをしとこうね。そしたら、朝まで安心でしょ」

 いつもしてきたように、父を洋式トイレの便座に座らせ、パジャマのズボンと紙おむつを足首まで下げる。細い棒のような足。ずっと水虫だった足の爪は、白く濁ったままだ。

「はい、おしっこを外に飛ばさないでね。パジャマまで濡れちゃうからね」

 それからちょっと視線を外したのは、おしっこの音を待つためだ。でも、音はなく、振り向くと、父はもういなかった。ただ、深夜の電灯に照らされた、白い便器があるだけ。

 これでもう、何度目になるだろうか。

「お父さん、自分が死んだこと、もう忘れてるんだよね」

 父は晩年、認知症だった。自分が死んだことが、自分でわからないのだろう。時々、こうやって、わたしの前に現れる。わたしが声をかけて、ちょっと世話をしてやれば、安心して消えていく。

 幽霊の父には体重がないから、支えても、こちらの腰痛は再発しない。

「いいよ、また、来てくれても……」

 長い介護生活が終わっても、わたしはまだ、父のことを忘れていない。たぶん、いつかわたしが死ぬまで、こうして繰り返し、父は現れてくれるのだろう。

(ありがとう。認知症でも、わたしのこと、忘れないでくれて……)

 椅子にかけて、読書の続きに戻った。一人の夜は、静かに更けていく。

     


 

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