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現実世界から分断されてる気持ちだった

小さい頃から、物語が好きだった。
本を開けば日常とは違う世界が広がっている。
その世界に「私」は存在していなくて、本の中だけで完結している世界を上からのぞき込んで楽しませてもらっていた。

主人公の突拍子もない行動に手に汗を握ったり、
天災に遭おうともどうにか希望を見出す人々に涙したり、
心の奥底にある真っ黒な感情に触れて人間不信になりそうだったり、
一途な恋模様に心踊らされたり。

たくさんの感情をもらって、揺さぶられてきた。
そのたびに、やっぱり本の世界が好きだと思った。

一方で、その世界には「私」が欠如していたのだと、最近は思う。
本の世界には、決まった登場人物がいて、それぞれに感情があり、それぞれ目線でその世界線について語られる。
読者として、「私」がその世界に関わることはない。

当たり前だが、その世界のキャラクターに触れることもなければ、自分が出来事を引き起すことも、話しかけることもできない。
何を考えようと、感じようと、誰からも何も思われないし、「私」に対して誰も評価をしない。
「私」がその本を読まなくても、その世界線は存在し続ける。
いわば本と私の世界は分断されていて、読者である「私」は一方的に感情移入をするだけ。
絶対に物語の結末を変えることはできない。

何を当たり前のことを、とここまで読んで思うかもしれないが、私は現実世界もそうなのだと捉えていた。

現実世界と「私」は分断されていて、「私」が存在しなくても世界は回っていくし、世界とは「私」が何を考えようと無関係に進んでいくもので、「私」はその世界の流れについていくことしかできない。

私が何を考えようと、世界の結末が変わるわけでもなく、この世界でいかに心地よく生きるか、馴染んでいくか、が大事なのだと。
ずっとそう思っていた。

でも、想像以上に「馴染むこと」は負担が大きいらしい。
本の中なら簡単にできるのに。

馴染むためには自分がどうこう、よりも、他の人が何を考えているのか、何を自分に望まれているのか、を察知することが大切だと思う。だから、周囲の顔色をよく見ていたし、発言一つひとつに気を使った。
そんなことを繰りかえしていたが、どうやら疲れてしまったらしい。

理由は、本と違って、自分が他者に何かしら関わりを持ってしまうからだ。それが絶望、とかではなく、事実。
東から太陽が昇って西から沈むのと同じくらい至極当然で、変わらないこと。

ただ私は、本の世界と現実世界の私との関わり方に気づきにくかった。
本は好きなのに、なんで現実世界で時々孤独を覚えるんだろう。その世界線に馴染もうとしているのは同じなのに、なんで現実世界では傷つくことが多いんだろう。
そんなことを考えていたけれど、

最近やっとわかったのは、現実世界は馴染むものじゃなくて、自分でつくれる、ということ。自分が生きている限り、何かしらの影響・干渉が周囲に生まれること。そこに自分の感情が動くこと。

私が当たり前だと思っていたことは当たり前じゃなくて、他の人もそう考えているだろうと思っていたけれどそうでもなく。
勝手に孤独になったつもりで、この世界が嫌いになって、落ち込んで。

自分と世界の距離感を言葉にすると、ああ、私と現実世界って分断されていたと、決めつけてたんだな。でも分断されてない部分もあるよなって、わかってきちゃったから、また今日も進んでいこうと思えている。

全くまとまりが無く、誰に何を伝えたいわけではないけれど、備忘録として書いておく。

私が本が好きだったのは、本の世界線でいつもとは違う感情を見つけさせてくれたから。その世界を変えることはできなくても、自分の知らない感情をたくさんくれたから。
そこには「分断されている」という大前提があり、ただそれを見落として現実世界もそうなんだと思い込んでいたということに最近気づいたよ、という記録。