計算機自然の中心でアイを叫ぶケモノ

魔法の世紀の夢

画像生成や、GPTのマジックを学びに
9と4番の3番線を探す必要は無い。
一見、非常に公平な世界だ。

デジタルネイチャーの世界では、
言語→行為→現象が、
言語→現象になる。
従来の記述的なデジタルに対して、
魔法の世紀と言われる所以である。

だが、AIとハリー落合は我々マグルに言う。
「質量ある人間の行く末は、
心技体の研鑽である」

もしくはこの世界と等速になろうと、
デジタルヒューマンとして
光速で偏在しようというのも、
この予言の書の一部である。

魔法の世紀における〈マグル〉


予言は順調なのだろうか?

ふと思うに、
魔法の世紀のマグルは辛そうだ。
本書は、東洋思想を引用しつつ。
この高速な自然観の変遷と向き合うために、
重要かつ必要な倫理を説いているが、
マグルにそれを望めるだろうか?

切ない話、本書の一般的な誤読である
百姓化〉というのが関の山かもしれない。
何でもするし、なんにもしない」
取るに足らない、統計の内側の人々。
イーロンマスクに置いていかれる人達だ。
計算機の魔法を持たない人。
実質の幻影に縋ってしまう人の性。
魔法の世紀におけるマグルの話をしよう。

マグルを追い詰める世界

TikTokやXから人類を救い出さなくては。
確かに、これは人生時間の無駄だろう。
だがそれが逃避の為の実質だとしても、
無意に奪っていいものか。
極端な話、陰謀論は信仰ではないのか?

危うくも、そして皮肉にも。
「実存のない実質を受け入れる」事が、
デジタルネイチャーそのものでもある。
「実質と物質」の観念が溶けていく世界。
それがデジタルネイチャーだからだ。

この不毛でクネクネした駄文が示す構造は、
メタバースを生きるバ美肉差別と、
〈負け組ランドセル〉の対比と似ている。
実質と〈現実〉の議論の予行演習だ。

実質は逃げ場になれているのか?

逆に考えてみよう。
今の実質の世界はそんなにいい物だろうか?
弱者が物質世界で背負うランドセルを、
実質の世界は降ろしてくれるか?


寛容なデジタルvs過酷な現実という対比は、
実際には同質の不寛容で満ち満ちている。

「センスオブワンダーを糧に、
心技体を鍛え、生活の中の禅を実践する。
人間至上主義やデカルト的自然観を超克し、実存の問題を乗り越えよう。」

簡単に言うものだと、少しだけ思った。
そもそもそれを理解し、体現できる人は、
そうした倫理と恵まれた心技体を、
既に身の内に持っているだろうに。

喜びを共有しよう


悲しくも、どんな思想であれ。
新しい倫理の押し付け以上にはなれない。

だからこそなのだろう。
デジタルネイチャーの中心でアイを叫ぶのは

「喜びを共有しよう」
「キミが好きだ」

この世界を共有できること喜びに感謝して、
雨に濡れて笑い、虫の音を聞いて眠ろう。

この世界を共有できる喜びをもって、
実質も物質も溶ける寛容を示そう。

負け組ランドセルを背負って、アイを叫ぶ。
魔法の世紀に、マグルと生きる。
そんな溶け合いの中にこそ、
デジタルネイチャーを感じてみたい。



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