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人と風

今日は、人との距離感について考えてみました
「人から好かれる」というハードルは高いので
「人から嫌われない」努力はしようと、ずっと思ってきました。

小学生の頃は「スポーツ万能な運動会の覇者」や
「手を上げて積極的に授業参加するリーダースキルの持ち主」など
見ていてもカッコイイ子達は、圧倒的な人気者でした。

勿論どちらにも属さない無党派の私は「自分の存在の薄さ」を知っていました。

それが中学生になった頃から少しずつですが「自分の居場所」を見つけられるようになって来ました。
自分が立っていて気持ちの良い場所は、少し風通しの良い「さらりとした人間関係」であることを認識していきました。

高校生になると急に女子校になり、そこは自分にとって新しい世界で
「この世は男女が共存して、初めて自然なんだ!」と最初のうちは、その不自然さに反発していましたが
日が経つにつれ「人は性別でなく個性なんだ」と思うようになっていきました。

歳を重ねて社会人となり、もっと多様な個人同士のぶつかり合いを経験していくと
私の中の「人間関係」というページは、どんどん複雑に増えていきました。

人はそれぞれ「感情の言語」というものを持っていて
みんな違う言葉で自己発信していると思うのです。

自分と似たような言葉を使っている人とは、確かに理解し合うのは時間はかかりません。

ですが、相手の言葉の質を考えずに、こちらの気持ちをぶつけても
そもそも言葉の成り立ちが違うので、意思疎通は難しくなります。

言葉はそれぞれに「好き嫌い」があって
選び方の心地よさも違うように思うので
相手に対して自分の言語だけで押し通すのは、とても勿体ない気がするのです。

「なんで相手の好む形に変換しないのだろう」
なんて、老婆心だとは思うのですが・・・時折感じてしまうのです。

私のこんな言動は、そんな小細工を断固認めないという人には「単なるゴマスリ」という言葉で片付けられるかも知れませんね。

でも相手を慮る気持ちは「ゴマスリ」に化すことは無いと思うのです。

自分の気持を相手の使う言語や、好んでいる温度に変換してから手渡すのは
たいへん面倒なことかも知れませんんが
小さな気配りは「争いの芽」をつんでくれる気がするのです。

荒削りの感情をそのまま塊にしたような言葉で、人を傷つける人は
天に向かって暴言を吐いているのと同じことのような気がします。

相手の想いを考え過ぎること
顔色を深く読みすぎること・・・そんな感じ方の癖が重荷になったこともありました。

でもそれは他人軸で生きているという事では、ありませんよね。

ぶれない自分があってこその「目配り、気配り」だと思いたいのです。

どちらにしても
家も人との距離も「見晴らしのよい、風が走る場所」が暮らしやすいですね



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