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小さな泡

人がそこに存在する限り、ストレスは無条件に生まれてしまいますね。
私も「頭の中で誰かがいつも喋っている状態」が続いた時期がありました。

何度ふり払っても繰り返されるお喋りは「頭で生み出し心で消そうとする」ばかりでした。

やがて食事をしても美味しさを感じる能力は低くなり、話をしていても頭も心もストレスの主に支配されているので、何も響かなくなりました。

いつも何かをしていないと落ち着かないし、もしくは何かに夢中になることで少しでも主の存在を忘れようとしていたのかも知れません。

誰かが私を目で追ったら、過呼吸になるような速さでしょう。
「何をそんなに生き急いでいるの?」と聞かれても、当の本人は無意識の中の意識なので解らない感覚です。

こんな状態になった時、人はどうやって加速を緩め、失速を止めたらいいのでしょう。

「心ここにあらず」の迷子になった心を、何処へ探しにいったらいいのでしょう。

私はそんな時、ふと日常の中で「あるシーン」に遭遇しました。

いつも通りに洗濯をしていた時、当たり前に見ていただろう洗濯機の中へ目が行きました。

そこで気持ちが引っ張られたのが「洗濯の泡」でした。

ぐるぐる回るただのあわ!?

何のことか意味不明ですね!
少々バカバカしい感じです(苦笑)

でも精も根も尽き果てたとき、あのただグルグルる回る泡を本当にひたすら眺めているだけの私がいました。

自分がスレスレの場所に立っていたのかも知れません。
そんな時だからこそ、誰にも見られず黙々と家族の汚れを0に戻そうと
している泡を眺めていて、何か感じたのでしょう。。

そんなふうに無と向き合える瞬間と出会えること、無駄なこと無意味なことに包まれてみること・・・けっこう風穴は空いてくれるかも知れないのです

生き急いでも、けして生産性は上がらないと解っているのに、魂も体も削りながら生きてしまいます。
でもそんなに考え散らして生きることを「命」は求めていませんよね。

あのとき「大差ないよ!」と誰かに言ってほしかったから、
「大差ないな」と誰かにも感じて貰いたいのです。

「今」も「泡」も同じものは一つもないですよね。

きっと誰かの「小さな泡」も、すぐそばに見つかるかも知れません!



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