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出会い~茶の湯~

先日テレビで茶道裏千家前家元のお姿を拝見した。
百歳とは思えないしっかりしたお話しぶりに感動した。
お扇子を手にされたたたずまいもとても美しかった。
長年のお稽古で身につけられたものと思う。世界中に一服のお茶とその心を届けられているという一途な姿勢は素晴らしい。

私も前お家元の足元にも及ぶべくもないが茶の湯をかいまみたことに今に思えば良かったと思う。お茶というと嫌う人も多いが自分の意思ではなく、たまたま出会った。
お抹茶の味も知らない時に親が開いてくださった道だった。
出会いとは人各々にあり、ものであり人であったりする。
私には茶の湯は未知の出会いだった。

現代では、個人が自分なりに選べる時代だが戦後間もない私の子供の時は、親が羅針盤だった。学校の先生は親も子も全信頼的な存在。警察のおまわりさんは怖いもの。そして「いつもお天道様が見ているよ。」と言われて育った。

学期末にいただく通信簿は手書き。先生方の字は端正で美しかった。生徒一人ひとりの成績や行動を併せて評価して下さる。小学校高学年の頃、その評価欄に「協調性に欠ける。我が強い。」というようなことを書かれた。
両親は成績より性格がこのままでは将来を案じたようだ。そして中学校入学と同時にお茶のお稽古にやらされた。当時は週休二日制ではなく日曜だけが貴重な休日に、お茶とお花の稽古通いとなった。
慣れない正座で足のしびれに耐えながらも中学高校と嫌々ながらも通い、それなりのお免状とやらもいただいた。
先生は母のお裁縫の師でもありお人柄もつつましく謙虚で丁寧なご指導だった。お道具の扱い、所作など細かいところまで教えられ今でも座ればそれなりに手は動く。

決められた形の重複練習を今の人には苦痛だろうが、何事も基本は大切だ。茶の湯は実践の世界。稽古を重ねるのみ。流派も多々あれ基本は同じ、心も同じである。
茶の湯はお茶をいただく。お茶を差し上げること。端的に言えばそれだけのことだが心を尽くして相手はそれをキャッチする。一服に込めた想いは深い。

私は知らないまま嫌々ながらこの門をくぐった。しかし、素晴らしい世界だった。日本の誇れる文化だと思う。先人につくづく感謝ばかりです。
露地の踏石辺りでウロウロ状態のままだったがその楽しさ、面白さは味わうことができた。

桜便りも終わり今では種々の若葉が自然界は美しい。
人間世界では政界の見苦しさ。戦火の中で苦しむ人々。一服のお茶も一滴のお水も届けられぬ。しかし、私たちの思い心だけは届けたい。
一刻も早い戦火のおさまりを願うばかりです。

                         卯月二十日

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