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仏教でひもとくウィズコロナ~星野源の楽曲を手がかりとして~ その⑶

※ これは、2021年5月25.26日、 真宗大谷派九州教区鹿児島組北薩ブロックの「坊守・女性門徒の会学習会」にて配付した、私がつくったレジュメです。
何日かしたら非公開か有料記事にしようと思います。
その⑴から⑷まで掲載するつもりです。

※B「生きて踊ろう 僕らずっと独りだと 諦め進もう」
という歌詞について……

 →歌詞中、他の箇所では、ひらがな表記で「ひとり」と記されているのに、この箇所だけ「独り」と漢字表記である。また、「一人」という表記でないのも何か意味があるのだろう。

星野源は「さらしもの(feat. PUNPEE)」という楽曲でも「独り」と「一人」の表記を使い分けている。

 ●『無量寿経』に「独生独死どくしょうどくし 独去独来どっこどくらい」という一節がある。
この一節は、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来るものが人間の一生であると説いている箇所である。ひょっとすると冷たい印象に思われそうだが、確かに、我々は生まれた時も死ぬときも、人生のあらゆるシーンは「独り」で送るのである。

そしてこの一人の寂しさとどう付き合っていけばいいのかというと、まさに星野源の言う通り、「僕らずっと独りだと 諦め進もう」ということである。

これは仏教が、孤独感による苦悩の問題を軽視しているということではない。七高僧しちこうそう源信げんしんは、最たる地獄の苦しみについて「孤独にして同伴どうはん無し」と言い当てている。

また、仏教の持つ機能として、「給孤独きゅうこどく」という役目を、仏法や教団が負ってきたという事実もまごうことなきものであろう。

逆転の発想みたいな話だが、仏教の視座では、「孤独感の解決」の第一関門は「独りの受容」にあると見る。孤独の解消は人数でまかなうものではない。たとえば、人口の多い町に住んでいようと、頼れる人がいなければ、それは雑踏ざっとうの中の孤独である。

ここで、『無量寿経』に目を向けると、「|身自当之《しんじとうし》  無有代者むうだいしゃ  (身、自らこれくるに、だれも代わる者なし)」という言葉が光る。
確かに人生に於ける瞬間瞬間は、それがいくら苦しくとも、身代わりのかないものである。どんなに悲しかろうと、辛かろうと、自らで引き受けないことにはしょうがない。人生には代役も替え玉もいないのだから。

しかしそれは、自身が代理の利かない存在であることの証明でもある。私も貴方あなたも誰だって、後にも先にも、世界中どこにだって、その人ひとりしかいない。唯一無二の尊い存在だ。

またそれは、「私の人生は、私に於いてしか完成し得ない」という気づきでもある。貴方が貴方の人生を生きるということは、貴方にしか成し遂げられない大仕事なのだ。

このように、誰しもが、ただ「る」ということについて、他者がおかせない尊厳がある。

このことに目が開くことで、有縁の人に対して、「貴方は掛け替えのない人だ」と言うことが初めて適(かな)う。そうすると、この元来独りきりの世界の中で、独り者同士が一緒になって、互いの人生を分け合い、共に生きていくことが出来る。

星野源は「僕ずっと一人・・だと 諦め進もう」と言っていない。それでは孤独への妥協である。そうではなくて、「ずっと独り・・だと 諦め進もう」と言っている。この歌詞の中には既に、ひととの出会いとつながりが含まれている。

しかし一方、はっきりと言って、我々が「友情」と幻想する多くのそれの正体は、「なれあい」である。人生の有事が怖くてたむろするともがらである。仏教徒の生活は独立独歩たるべきであって、その独尊子どくそんしどうしのともがらを、真に、「友」とも「同朋どうぼう」とも言うのだ。


 ●また、星野源は、初のエッセイ集『そして生活はつづく』(2009年/マガジンハウス刊)の中で、「集団と『ひとつ』になることを目指す。それが、この日本の社会から生まれる、集団の基本的な『和』のしくみであると思う。でも、やっぱりそれは少し窮屈だと思えてならない。(中略)本当に優秀な集団というのは、おそらく『ひとつでいることを持続させることができる』人たちよりも、『全員が違うことを考えながら持続できる』人たちのことを言うんじゃないだろうか」と述べている。

このことから、星野源は、それぞれの存在が十把一絡じっぱひとからげくくられた社会(集団)ではなく、それぞれの存在の多様さを前提とした社会にこそ価値を見出しているとうかがえる。

仏教も同じような価値観を有しているが、我々の帰依するところの仏法は、この世界にその価値観の完全実現を図っていない。この世は「独り」の忍土にんどであると明らめて、彼岸ひがんの世界にその価値観が完全実装されていると考える。
浄土の池の蓮の花がそれぞれの花の色のままに、それぞれの光を放つと説かれるのは、その具体的なたとえとしてである。

そして星野源も仏教も、今生こんじょうの世界や、現今の人生を、無意味なものと見ていく態度をとるわけではい。それぞれバラバラな存在が織りなす世界だからこそ、かえってそこにしか求められない「同地どうち」を説いているのだ。

星野源は自身のラジオ番組で、「うちで踊ろう」の「僕らそれぞれの場所で 重なりあうよ」という歌詞について、「実際に歌ったり踊ったりするとわかると思うんですけど、本当に重なっている感覚になるんですよ。一緒の時間を過ごしている感覚だったり、自分と誰かが今つながっているような気がする感覚って、それだけで生きられるんですよね」と述べているが、この思考の図式は、「独生独死 独去独来」の事実をけながら「倶会一処くえいっしょ」」の世界を|希《こいねがう、浄土教の構造と類似している。

私は、星野源の歌や言葉を通じて、「人間は元来独りであり、集団化や統率化とうそつかを強要される必要がないこと」。「自分自身の生涯を独りで全うする中にも、万象ものみなと重なり通じ合う法があること」。「孤独感による苦悩は物質的・空間的な重なりだけではなく、非物質的・非空間的な重なりからも紐解ひもとかれていくこと」を教えられた気がした。


⑶おわり。⑷につづく


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