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自分の歳に母を重ねて思うも

子供は育った環境や親にどれだけ影響されるのだろう。
もちろん学校や社会の中で学んで行くことも数多くあるだろう。
母のことを少しだけnoteに書いておきたいと思った。

初めて親元を離れ、都会で寮生活をしたのはもう遥か遠い昔のこと。
地方から出てきた部屋の仲間は6人。
夢と希望と好奇心いっぱいの田舎娘達が集まった。
まだ慣れない都会の生活に、初めて乗る満員電車だって皆と一緒だと心強かった。
夜ともなれば、お化粧やファッションの話に花が咲き、こうして私達は少しずつ垢抜けていった。

ある日、体育の授業があることを知ったのだが、体操着など誰も持っていなかった。
今の時代ならば、スエット上下など何処でも買えるだろう。
ネットで安く買うことだって出来るのだが、その頃はなかったのだ。
もちろん携帯電話もなかったから、みんな公衆電話から実家に電話をして、高校時代の体操着を送ってもらうようにお願いをしたのだった。

それから数日後、郵便小包で大きな箱が次々と寮に配達された。
その箱の中には体操着はもちろん、お菓子やインスタントの味噌汁やスープ、地元の銘菓やら服や靴下など、皆それぞれ様々な物が詰め込まれていた。
きっとお母さんが、その時思いつく物すべてを詰め込んだのだろう。
それを見てホームシックになり泣き出す子もいた。
そんな子を励まし、送られて来たお菓子を皆で食べながら、おしゃべりは毎日夜遅くまで続いた。

そしてやがて少し遅れ、私にも小さな小包が届いた。
中を開けると 折り畳まれた体操着が入っていた。
そこにはメモ書き一枚さえない。高校の体操着だけ。
期待をしていたわけではないけれど、その時私は、あぁ~母だなと思ったのだ。
そこには悲しいも寂しいも、もちろん怒りの感情もなかった。
ただ私は皆にたくさんのお菓子をもらって食べたのに、何もお返しが出来なかったことが何だか気になったのだった。

そんな寮生活の団体行動に私はだんだんと疲れ、3ヶ月後には私は寮を出た。
唯一の友はラジカセだった。

今になり自分の歳に母を重ねて思うも、母は何を思い何を考えていたのかがわからない。
性格はきつく厳しく、私とは全く正反対でよくわからない人だった。
子供の頃の記憶をたどっても、母との楽しい思い出が私には何も浮かんでこない。
怒られて泣いた記憶はたくさんあっても、女同士笑ってぺちゃくちゃ話をした記憶があまりない。
きっと愛情はあったのだろう。
でもその表現が母は出来なかったのだと思う。

時々、自分が母の性格に似ているとフト感じる時がある。
だいたいそんな時は嫌なことが似ているのものだ。
最近は鏡の中の老けた顔や体型も似てきた。
何だかんだ言ってもやはり親子なのだ。

今はもう亡き母だが、自分は幸せだと最後はいつも言っていたのが心に残る。
きっと自由な人だったのだろう。
あくまでも我が道を行ったそんな母なのだった。


栗だけ食べちゃダメよ

お茶にしましょう
モンブラン 秋だね

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