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老人を連れてボリビアに行く


N先生連れてボリビアに行こうと思うんだけどどう思う?

そう聞かれたとき私は無理じゃないですかねぇ私は反対ですよ、と答えた。

その時私は大学の研究室で研究支援のお仕事をしていた。研究室の先生の秘書的なこととか、研究費で分析装置を購入したりしていた。

N先生は15年位前に退官した名誉教授先生で、その研究室の先代の先生だった。あとをついた私の上司であるT先生が博士課程の同期のOさんを訪ねてN先生をつれてボリビアに行きたいということだった。T先生は50代後半でN先生は70代後半。N先生も良く存じ上げているがだんだんできないことが増えてきてパソコンでメールを打つよりファックスの方がいいらしい。ご自宅に奥様と二人で住んでいる。ご自宅にもときどき伺っていたが、ご自宅はきちんと片付いていたので大丈夫そうだが足腰が弱ってきたのと耳が遠くなったのが顕著だった。

が、しかしその年の5月にお二人ともう一人の当時の助手の先生(同じく70代後半)と3人でボリビアにむかったのだった。

最初からグダグダな計画だった。ほかの秘書さんが旅行を手配していたのだがその秘書さんが突然辞めてしまい引継ぎもなかった。私はあんまり関係ないのかなっって思っていた。

その日の夜、T先生からラインがきた。旅程だと日本ーアメリカーコロンビアーチリーボリビア首都ーボリビアのOさんの最寄の空港って感じの空路だったのだがアメリカからコロンビアに行く飛行機がよくわからないまま欠航になったというのだ。海外出張が多いT先生が動揺している…。代替えの飛行機はどうしたらいいの?って・・・そんなの現地のカウンターで調整するしかないじゃん。旅行代理店に連絡してっていわれたけど、前の秘書さんがてはいしていてどこの代理店かわからなかった。個人的なつてで取った航空券だったみたい。しかも真夜中だった。(真夜中なのに私もよく働いたわ。)
飛行機がおくれることを現地のOさんに連絡してといわれたのでOさんにWhatAPPで連絡した。私の賢いところなんですけど、事前に連絡先を交換しておいていたんです。秘書としてはめちゃくちゃ有能だと思う。

そのあと先生と老人二人は大きく予定を変えて、アメリカからエルサルバドル(サンサルバドル)へ飛んだ。サンサルバドルには共同研究している大学がある。私も個人的に連絡とっているホセさんがいる。とりあえず連絡。今からT先生がサンサルバドルの空港に着くのでちょっと助けてほしいの~というとエルサルバド人のお国柄なのかすぐさま空港に出向いて(自宅から2時間ぐらいかかるところ)空港で待機してくれてた。

エルサルバドル-リマ-サンタクルス-に変更されることになっていたのでエルサルバドルで一泊することにしていた。

が、しかしそこで一泊しないことに急遽きまり、サンサルバドル空港についたら大急ぎでリマ行きのフライトに飛び乗った。空港まで出向いてくれたホセさんには本当にすまなかったな。。。

ご一行はリマで一泊し半日観光を楽しんだあと、サンタクルスへ、そのあとラパスでとうとう30年ぶりに懐かしい同級生(N先生)と指導教員(二人の老人)と対面を果たしたのだった。空港で出迎えたO君泣いてたそうです。ご老人方も再送くたびれた様子だったそうです。リマは高地なので少しきつかったかも、何よりフライトが70時間ぐらい続いたのでさすがにくたびれたでしょう。

Oさんはボリビアのその界隈では大御所的な存在になっていたらしい。出世した自分の姿を当時の指導教員にみてもらいたかったんだね。その当時にJICAの援助で導入した装置もまだ健在だったそうです。日本援助もすごいね。おそらくOさんの留学もこともJICAの援助だったんじゃないのかな。Oさんは英語がほぼネイティブみたいに話せるひとなので(生まれはボリビアでカナダで育ったらしい)私との連絡はほぼ英語でした。先生たちがボリビアにいる間に日本語を少し思い出して話してたみたいです。

ラパスの大学で予定されいてた講演も無事に済み、現地でウユニ塩湖の視察とか鉱山に視察を終え無事帰路につき(比較的スムーズに)、無事に日本に戻ってきた。

途中何度となくWhatAPPで連絡とり(時差があるから夜中)ANAでは変更できなかったボリビアの国内便の手配を日本の大学のスペイン語話者の学生にお願いしたり、O君にお願いしたり大変だったがなんとなく楽しい思い出です。N先生の奥様が心配されていたので時々連絡して、先生はいま××にいます、あしたは〇〇に移動します、なんて連絡も入れてました。私ってホントに有能な秘書だと思うんだわ。(改めて思う)

大学のお仕事はとても楽しかったです。夜中にお仕事しても勤務時間に見なされなかったし個人の携帯でやり取りしててただ働きみたいになってきたのはちょっと嫌だったな。それに見合うお給料はもらってなかったなぁ。

その一年後に世の中はパンデミックとなり渡航制限がかかり、N先生はご病気で酸素ボンベを持ち歩く生活となりました。あの時あのタイミングでないといけなかったんじゃないかと思います。

そのあとの旅費精算もぐだぐだで、レシートとかいろんなものをなくしてしまいがちの3人の先生方にちょっとうんざりでしたねえ。まあ無事に帰ってきたので良かった。

このT先生は出張するとだいたい台風にあたったり、大きな地震がおこったりするちょっと引きがすごいタイプの人でした。

私は大学の仕事を辞めたんですがO君はまだ辞めたことを知らないのかもしれなくて、クリスマスとかお正月なんかにメッセージが来て、先生方によろしくねって言ってきます。今でも大学の先生がたとは連絡とってますのでお伝えしてます。

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