見出し画像

美しくあるために、自らの内に平和を見出し成長し続ける。1人も地球も

 グレタさんの演説にまた押しつぶされそうになる。地球の住人の一人として、そうした大きな地球の危機に対し無力を装っていた自分を情けなく感じてしまう。無知のままなんとか生き永らえているあいだに、この星をそこまで追い込んでしまったという責任も感じる。

 しかしながら私は、私の人生、いのちには真正面から向き合ってきた自負はある。私の興味関心は「人」からは離れたことがなく、人人の一人一人の内面の平和が、人類の平和と、地球との共生につながると信じている。

 そして、私のいままでの懸命の生業は、自分自身の中に真の平和を見出すことだった。

下に載せるのは、は8/6の書置きである。前回記事同様、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をきっかけに想起した、私の役割、性分について言語化しておきたかった。

前回記事 表現の不自由の自身の原体験とそれを突破する意志について

https://note.mu/livebooksou/n/n9119d2075bc6

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 現実世界、物質世界の充実と変革にいそしんでいたこの数ヶ月。あいちトリエンナーレをめぐる、大きな雑踏に大いに揺さぶられていろんなことが浮かんでくるのをいったん何かしらの形にしておきたかった。非常に胸がどきどきしている。息が詰まっている。降ってくるもの、体に充満したものを吐き出すんだ。久しぶりに昇天・無心の中で書く感覚。

自分のSNSでの発信で、「美」について言及することが多くなってきている。

美しくある、美しい世界、美徳、美的感性…

 しかしバランスをとっておかなくてはならない。思い描き目指し具現化し実現していく生き様と同じくらいに、もがき苦悩し自問し、自己の成長につなげるために見ずには済ませられない闇や思い込みやトラウマを直視し続ける日常がある。

 自分の言う 「美しくある」 というものは(これはあくまで私にとってのスタイルだが)それは 私を私らしく振舞わせない何かと たたかい続ける ということだ。気づきつづけることだ。私は「成長する」ことでそれを実現しようとしている。

8/6記

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 毎年この季節には一番体がひきしまる。あまりたべなくなるのは、我が家の愛犬同様、発情の強まりとも重なるのかもしれない。昨年の断乳から1年たち、物理的にも身が軽くなって、子どもたちと過ごすエネルギーの質も変わってきた。

 今の私が人生の中で身体的に最も充実して、イメージと現実の肉体の差異が少なくなっている。体は正直すぎる。私の純度が守られているかどうかの重要なバロメーターだ。私自身に対しての説得力、自信につながる。

私大丈夫。っていえる。

 何度か表明していることだが、内外ともに

いつでも堂々と脱げる自分でいられること、が最重要な事項とも感じている。

ごまかしなく、うそ偽りのなく、生命力を持つ存在としてある。

その姿が、周囲を少しずつ揺り動かせるのなら、それが私の役割だ。



書くことで社会循環に加わりたいと思っています。 サポートいただけると大きな励みになります。よろしくお願いします!