見出し画像

ポツダム訪問

 1945年7月、ポツダムで連合国による戦後処理が話し合われた。

そんな歴史的で責任のある地に実際に足を運んでみた。

 当日は舞台となったツェツィーリエンホーフ宮殿が休業日ということもあってか辺りは閑散としていた。ただ、戦後処理という世界規模の話し合いがもたれた場所としてはあまりにも不釣り合いである。最寄りのバス停から徒歩数十分、ベルリンの郊外であるという情報以上に平静な田舎町である。会場のツェツィーリエンホーフ宮殿も、宮殿という名を冠していなければちょっとした大きめの住宅に見えないこともない。あまりにも人気がない。いるのは散歩で通りかかった地元住民と自分達だけである。
 そういえば、昨晩泊まったベルリンのホステルで部屋を共にしたジョージア人の青年も「何でわざわざそんな辺鄙な場所に観光しに行くのか」と不思議がっていた。(自分達の国はその会談が行われた後に戦争に敗北した。自分たちの国にとっては歴史的で行く責任のある土地だ。と話したら「戦争では負けたかもしれないが、君たちには世界に誇るテクノロジーと経済力があるじゃないか。そういう意味では君たちは真の勝者だよ」と謎に励まされた。そんな話はまた別の機会にでも)
 
 一通り宮殿の周りを歩いて、写真を撮った。スマホの写真フォルダを確認する。いつも思うことだが、どんなに魅力的な被写体でも写真として見る以上に肉眼で見ることの衝撃・感動は大きい。デジタル化が進む今日この頃である。ただ、写真や動画といったデジタル媒体ですら完全に対象物の良さを再現できない内は、実際に足を運ぶことの意義は依然として大きいのだろう。
 宮殿とその周辺の街の規模に相反して、かつて世界秩序を決定づける話し合いが行われたという事実。それが行われてからもうすぐ80年が経つ。

 かつてに思いを馳せつつ、次の目的地であるグリーニッケ橋がある方向に向き直って歩き出した。一緒に来た仲間が先頭を歩いていく中、何度か立ち止まっては、少しずつ小さく、視界から消えゆく宮殿を振り返ってしまった。

 お馴染みの通り、その後の母国では世界最初で最後の核攻撃、ソ連の侵攻という歴史が創られることになる。

 心なしかツェツィーリエンホーフ宮殿を見つめる自分の表情はその地を訪れた人々の中で一番の渋さがあった。

自分のナショナル・アイデンティティにとって歴史的で責任のある地である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?