読書ノート:「ハイデガー 『存在と時間』入門」轟孝夫 講談社現代新書

【今読んでいる本「ハイデガー 『存在と時間』入門」轟孝夫 講談社現代新書】

何の予備知識もなくいきなり読むには難しすぎる入門書だけど、100分de名著と読書会でだいぶハイデガーが考えていたこととかハイデガー用語がわかってきたおかげで、なんとか読めているという状態。

しかし、何言ってんの??って、わからない箇所は多いが哲学の本ってそういうもんだと思う。入り口に入りかけた人にはとってもいい入門書だと思うーーー。こちら、豊橋まちなか図書館で借りた。

P265のあたりが「みんな」の空気の中で自分探しをする人の姿を分析しているようでめっちゃ面白いと思った。

ハイデガー用語

◆現存在=人間
◆非本来性=「みんな」がそうしている、そういうもんだという空気の中で生きている状態のこと。
◆頽落=世間的なところに身を置く自己のあり方

ただし、こうした状態がいけないとか、いいとか、真正な生き方を求めることがいいと、教訓めいたことを言いたかったわけではなく、「人ってそういうもんでしょ」と、分析したかったということ。

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P264ーP 266から引用

しかしこの頽落の気休めは、現存在に活動のない静止状態をもたらすのではなく、むしろますます現存在を活動へと駆り立てる。

・・略

ここではなんでも知っているということが、真正な現存在理解を保証するかのように見なされている。しかし、ハイデガーによれば、了解とは本来、自分自身の状況において自分自身が何をなしうるかということに他ならない。

そうだとすると、他文化についての情報をいくらたくさん集積したとしてもそれは自分の置かれたこの状況で何をなしうるのかという真の自己了解とは何の関係ももたないだろう。

このようにしてあらゆるものをあらゆるものと比較しながら了解するときには、現存在はむしろ「疎外」の方へと向かっているのであり、むしろ自分のもっとも固有なあり方は覆い隠されているのである。

しかし、この疎外は、現存在がおのれの存在に無関心だということではない。

それは、現象的にはむしろ逆の自体として表れる。

「疎外が現存在をあまりにも度を越した『自己分析』へと追いやる」のだ。自己分析によって現存在はあらゆる解釈可能性に手を初め、その結果無数の「性格学」や「類型学」を生み出す。

P266

その場面から離れたところにいくら自己を求めても、自己を見出すことなどはできない。逆に言えば、そうしたところに自己を見出そうとすること自体がそもそも自己からの逃避であり、まさに頽落なのである。

ハイデガーは、現存在のこのような疎外も、現存在が自分自身から生み出したものにほかならず、このことを、自己自身に「絡めとられること」と読んでいる。現存在の非本来的なあり方は、それこそ自縄自爆とでも言うべきもの。



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