【対話#1】イギル・ボラ×温又柔「私の言語を探して」 二つの世界を行き来する私を語り明かす
『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』の刊行を記念して、2021年1月8日に、代官山 蔦屋書店でトークイベントが開催されました。
著者のイギル・ボラさんと小説家の温又柔さんは、この日に初めて会い、対話をはじめました。ここでは、そのお話の模様を4回に分けてじっくりお伝えしていきます。
■トークのはじめに、イギル・ボラさんが監督したドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』の予告編がスクリーンに映されました。
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イギル・ボラ:私は、ろう者の両親の元に生まれたことがストーリーテラーとしての先天的な資質だと信じて文章を書き、映画を撮っている者です、といつも自分を紹介しています。
私の本に関連したイベントを日本で行うのは、今日が初めてなんです。やはりコロナの影響で規模が縮小されてしまったのが残念ではありますが、でも安全が何より大事ですので、このようにオンラインでも皆さんに楽しんでいただければと思います。
先ほど、温又柔さんと事前にお会いして少しお話したんですが、私のこの本『きらめく拍手の音』はろう者の両親の元に生まれたコーダの視点で書いた本ではあるものの、障害者と非障害者の間にある文化について語っているだけではないのです。それだけの物語ではないと思っていますので、今日、温又柔さんと一緒にそのことについてお話できることが一番の楽しみです。
温又柔:今私、喋っているボラさんの顔を見ながらウンウンうなずいてるので、あれ、韓国語がわかってるのかな、という美しき誤解をされてる方もいらっしゃるかと思いますが、私はいつかちゃんと勉強をしたいとずっと思いながらも今はまだ韓国語が全然できないんです(笑)。
ボラさんの本を読んでいると、手で話す人たちって、喋るときにお互いの表情をものすごくしっかりと見て、コミュニケーションすると書いてあります。なので今日は私も、唇の代わりに手で話す人たちにならって、根本理恵さんが日本語に通訳してくださるのを待ちながら、韓国語で喋っているボラさんの表情をしっかり見たいと思ってきました。
イギル・ボラ:いつも私は、いろいろな言語の間に立って生きてきたわけなんですが、私が知っている言語もあれば、そうではない言語もあります。そのなかで、今日はちょっと混乱しています。
……というのは、隣に手話通訳の方がいらっしゃるんですが、私は話をするときに手話通訳の方が見えないんですね。日本語と韓国語の手話は60〜70%くらい似ていると言われています。
そして、私自身は日本語の勉強もスタートしたので、右の耳では日本語もちょっと聞こえるんです。左の耳では韓国語が聞こえる。そういう複雑な環境に今おかれています。そのなかで、ベストを尽くしたいと思います。
温又柔:はい。今みたいな、日本語なら日本語、韓国語なら韓国語とその場にいる誰もが同じ一つの言語を理解しているのではないような状況は、不便と言えば不便なんですよね。すぐに通じない、っていうことでは。
ただやっぱりこういう風にそれぞれの文化、それぞれの内面世界を持っている人たちが同じ場所に集っているという状況を、みんなでこうして体験する経験っていうのが、たぶん、今のこの世の中ではわりと少ないので、私としては、ボラさんと語らうためには、自分とボラさんがいるだけでは成り立たず、間に手話の通訳の方、韓日通訳の方も含めたちょっとややこしい状況になってしまうこと自体を楽しみたいなと思っています。
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温又柔:……その話のつながりで、この本のことに触れたいんですけれども。聞こえる文化と聞こえない文化の間を行き来しながら育ったというボラさんの話が、私の育ってきた環境とも、もちろん完全に同じではないんだけれども、けっこう重なるところがあったことをまずは話したいんですよね。
これは、どういうことかと言いますと、ちょっと自己紹介すると、私は1980年、台湾の台北市というところで産まれました。ボラさんよりちょうど10歳オンニですね(笑)。私の両親はどっちも台湾人で、二人とも学校では中国語を学んだ世代です。二人が生まれ育った台湾では、公の場で使わなければならない中国語とはべつに、台湾語と呼ばれている言葉を話す人たちもたくさんいました。私が赤ん坊のとき、両親をはじめ、まわりにいた大人たちは皆、中国語と台湾語を混ぜ合わせて喋ってました。
たとえば、「この赤ちゃん、かわいいね」って言うときに、
「チレ、イーヤー、好可爱(hǎo kě ài)」と言ったりとかね。
チレイーヤーの部分は台湾語で、好可爱は中国語です。こんなふうに中国語と台湾語がごちゃまぜになってるような言葉を、赤ちゃんの頃の私は音としてたくさん吸収しました。だから最初に喋れるようになった言葉も、今喋っている日本語ではなく、台湾人である親たちが喋っていた中国語と台湾語が混ざり合った言葉でした。
で、そういう状況で、私は3歳児のときに、東京に来ました。
東京に来ると、家の外では日本人ばっかりなので、日本語を喋る方がすごく多くて、特に幼稚園に行くと、もう幼稚園の世界ってほんとに日本語しか通じない。で、家の中では親が喋る日本語じゃない言葉がいつも聞こえて自分でもそれを喋れたのに、一歩家の外に出ちゃうと、そういう言葉を使うと誰もわかってくれないから、外で、友達とか先生と仲良くするために、一生懸命、日本語だけを喋るようになりました。
これは、仲良くなるために、っていうポジティブな面ももちろんあったですけれども、やっぱりもう一つは、仲間はずれにされないために、っていう、割とこうネガティブな圧力も感じていました。
だから当時のことを思い出すと、世界が二つあったという感じなんですよね。家の中と、家の外という二つ。それは、何を言っても通じる世界と、日本語を言わなくちゃ何も通じない世界という意味で。
だから私もまた、四歳、五歳ぐらいの頃から自分は二つの世界を行き来しているのを感じていました。
それがあるからか、「聞こえる文化」と「聞こえない文化」の間で生きているというボラさんの本を読んでいると、自分の経験とすごく似ているなと思うところがたくさんあって、ちょっと他人事に思えなかった。
もちろん似てるところがあるからといって、まったく同じではなくて、むしろ全然違う部分もたくさんあります。だからこそ、自分とボラさんの似てるところと違うところを丁寧に見てゆきながら、複数の文化を最初から生きなくてはならなかった子ども同士としてもお話できたら楽しいなと思っています。
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イギル・ボラ:温さんの作品は、なかなか韓国で翻訳されたものがないんですけど、私が拝読したのは、短編小説2作品です。『あの子は特別』と『日本人のようなもの』という作品が翻訳されていましたので、読ませていただきました〈「季刊アジア」第56号 2020.春 「계간 아시아」제56호 2020.봄に収録/すんみ訳。日本での原書は『空港時光』(河出書房新社刊)〉。
これを読んで感じたのは、日本の社会にも、日本語とは違う言語の環境の中で生まれ育つ子どもがいたんだということ。そして、日本に住んでいながら母国語ではない日本語で小説を書く人がいるということ。
しかも温さんは、ご自身の経験を反映させて小説を書いている作家だということを知りました。多様な文化を、作家として伝えてくださっている温さんと一緒にお話できることが、本当に楽しみになりました。
(短編小説のなかで)子どもの時のお話を書かれていたんですが、「台湾の人なのに、中国語ができるの?」っていうことをたくさん聞かれたり、「台湾の人が、みんな台湾語が話せるの?」という質問をされたりしたそうですね。実はそれと似たような質問は、私も子どもの頃からたくさんされてきたんです。例えば「あなたの両親は、手話ができるの? できないのに聞くことができるの?」って聞かれたり、「聞こえないふりをしているんじゃないんですか?」「どれくらい聞こえないの?」「口の形を大きくして話せば聞こえるの?」……。
そんな質問を、子どもの頃から本当に浴びるようにされてきたんですが、それは障害に対する「偏見」であるということと同時に、違う文化に対して閉ざされた社会があるということを物語っていたのではないかと思います。韓国社会と日本社会だけの話ではないですよね。この地球上に人間が生きていくために作っているものが文化であるなら、社会の中に存在する様々な文化、自分とは違う文化、つまり多様性というものがもっともっと増えて広がっていく必要があると思います。
温又柔:はい。本当にそこは『きらめく拍手の音』を読んでいて、すごく感じたところなんです。ボラさんは、自分は書く、書くことで自分になろうとしたっていうふうにお書きになっていますよね。
ボラさんは、私は私であり、それ以上でもそれ以下でもない、という。それを追究するために自分自身を表現するのだと。
ボラさんがおっしゃってくださったように、『あの子は特別』に書いたとおり、私も子どもの時から、たくさん質問を受けてきました。友達から「へえ台湾から来たんだ。台湾って何語喋るの?」と聞かれると、必ずしもイヤではなくて、すごく嬉しいときもある。きっと自分は他の普通の日本人とちがって特別な存在なのだと誇らしくなったりしてね。
ただ、同じような質問ばっかり何度も何度も答えてゆくと、だんだんウンザリしてくる。それでも、自分は普通の人とは違うから、そういうことを説明する義務があると思いこんでて、いつも一生懸命答えていました。
でもよく考えたら、「なんでみんな私にばっかり聞くんだろう?」「私に聞く前に、もう少し、他の人たちも自分で考えてくれたらいいのに」と思うんですよ(笑)。だって、私に答えさせなくても、ちょっと調べれば済むことだってたくさんあるんだから、と。
小説家になってからは、私の本を読んで、他の人とはちょっと異なる私の生い立ちに興味を持ったり、そんなふうに育った私の話を聞きたいと願ってくださる方々に招かれて、話をするという機会がぐっと増えました。
今、まさに実感しているんですが、考えてみたらなかなか贅沢なことですよね。自分が話すのを、たくさんの方——オンラインで視聴くださっているカメラの向こうにいらっしゃる方々も含めて——が、こうして熱心に耳を傾けてくださるなんて。すごくありがたいことです。
でも、そうやって、たとえば日本で育った台湾人として、とか、外国人の親を持つ立場として、なんだか私、また、同じことを話してるなあ、と思うときがあるのも本音です。また、一から説明しているな、みたいな。これって、私が説明しなければならないことなのかな、とも思ったり(笑)。
私には、自分の話を聞いてもらえるという権利があって、その権利を、特に小説家になってからは、たぶんかなり行使している。でも、その権利以上の義務を、つまり、何もかもをはじめから丁寧に説明しなくてはならない義務を負わされていると感じて、クタクタになることがあるんです。自分の話をさせてもらえるありがたさ、と、自分の話をしなければならない負担は表裏一体で、それをどう受け止めたらいいのだろう、と。
『きらめく拍手の音』でボラさんも、自分のような経験をしていない圧倒的多数の人たちを相手に、ご両親を含む自分自身の境遇などを説明することを繰り返して、どんどん疲れていって、とお書きになってましたよね。その部分を読んだとき、自分と重なったのもあって、とても胸が痛んで、まだお会いしたことのないボラさんをぎゅーっと抱きしめたくなりました。
(【#2】へ、つづく)
(2021年1月8日 代官山 蔦屋書店にて。韓日通訳:根本理恵)
〈プロフィール〉
■イギル・ボラ(Bora Lee-Kil)
映画監督、作家。1990年、韓国生まれ。ろう者である両親のもとで生まれ育ち、ストーリー・テラーとして活動する。17歳で高校中退、東南アジアを旅した後、韓国芸術総合学校でドキュメンタリー制作を学ぶ。ほかの著書に『道は学校だ』『私たちはコーダです』(いずれも未邦訳)など。ドキュメンタリー映画監督作に『きらめく拍手の音』『記憶の戦争―Untold』ほか。『きらめく拍手の音』は韓国で多数の映画賞を受賞。日本では山形国際ドキュメンタリー映画祭にて「アジア千波万波部門」特別賞を受賞、2017年の公開以降、日本各地で上映されている。
■温又柔
小説家。1980年、台湾・台北市生まれ。2歳半から東京在住。執筆は日本語で行う。著書に『真ん中の子どもたち』(集英社)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水Uブックス)、『空港時光』(河出書房新社)、『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)など。最新刊は、木村友祐との往復書簡『私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ』(明石書店)。
〈書誌情報〉
『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』
イギル・ボラ著 矢澤浩子訳 解説=斉藤道雄(リトルモア刊)
手話は言語だ。「コーダ」=音の聞こえないろう者の両親のもとに生まれた、聞こえる子(Children of Deaf Adults)の話。
映画監督、作家であり、才気溢れる"ストーリー・テラー"、イギル・ボラ。「コーダ」である著者が、ろう者と聴者、二つの世界を行き来しながら生きる葛藤とよろこびを、巧みな筆致で綴る瑞々しいエッセイ。
家族と対話し、世界中を旅して、「私は何者か」と模索してきた道のり。