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【対話 #3】イギル・ボラ×温又柔「私の言語を探して」 この世界にまだない、私たちの読みたかったストーリーを立ち上げる


きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』の刊行を記念したトークイベントの模様をお伝えしていきます。

前回までの記事はこちらから→【対話#1】【対話#2



温又柔:この本の冒頭に、ボラさんが友人から「コーダ」という単語を教わる場面が出てきます。ボラさんは、ろう者の父母から生まれ育った聞こえる子どもとしてずっと生きていたけれど、そういう境遇をあらわす単語があることは二十一歳になるまでは知らなかったんですよね。それまでのボラさんは、まさにひとりきりで、ろう者の親を持つ自分の経験と記憶を背負っていたけれど、そこからは、「コーダ」の一人として、自分と同じような立場の人とその経験をシェアするようになります。
ボラさんの本は、そういう、かつてのボラさんのような、コーダという単語を知らずにいるコーダたちに、あなたはひとりじゃない、と教えます。
でも、ただそれだけじゃなくて、私はこういう体験をしてこんなふうに生きているコーダだけど、あなたはどう? と呼びかけてもいる。
あなたは私たちの仲間だ、でもあなたは私のようでなくてもいい、という願いが込められているからこそ、ボラさんの本はとても豊かなのだと思います。

私は日本で育ったので、文字の読み書きは日本語で覚えました。逆に言えば、中国語は読めないので、子どものときからずっと、日本語の本ばっかり読んでいました。そうやって日本で、日本語で本を読んでいると、出てくるのは、ほぼ日本人なんですよね。私は本の中に自分に似ている子を探すんですけど、台湾人の親がいる子は全然出てこない。逆に、本の中には日本人しか出てこないものなのだと知らずしらずに思い込んでいました。だから自分でおはなしの真似事として物語を書いてみるときも、主役とかその友達は私とちがって全員日本人として書いていたんですね。
でもあるときに、日本語で書くからといって日本人しか書いちゃいけないなんて誰も言ってないよね、と気づいて。それで、自分のような台湾人が主人公の小説を書こうと決意しました。

だからはじめは、私自身が読んでみたいと思うものを書きたかったんです。
好去好来歌(こうきょこうらいか)』と題したその作品で、私は小説家デビューしたんですが、台湾で生まれて、3歳のときからずっと日本に住んでいて、カタコトの日本語を話す母親にちゃんとした日本語を話してほしいと苛立ったり、両親の母国語である中国語を学ぼうとして挫折したり……という私自身の経験を反映させた内容の小説が雑誌に掲載されると、それを読んだ人たちの多くから「こんな経験、全然知らなかった! すごく新鮮です」と言われました。で、そういう感想を抱くのは、ほとんどがいわゆる普通の日本人なんですよね。
一方では、「あの小説に書いてあることはめずらしくもなんともない」と言う人もいて。「母親がカタコトとか、学校の中と外で言葉が違うとか、中国語が日本語にまざってるとか、そんなの昔からよくあることだし、華僑ならみんな経験してる。温又柔とかいう人は、それをそのまま書いただけでしょ」という感じなんです(笑)。
まったく同じ内容なのに、読む人の境遇によって「新鮮」とも「凡庸」とも言われるとは……もう十年以上前のことですがすごく考えさせられましたよ。

イギル・ボラ:私も完全に同じ経験をしたことがあります。私が『きらめく拍手の音』という映画を作ったときに聴者の方、聴こえる方がこの映画を観て「いやあ、ろう者の世界はこんな風に美しいんですね。そしてまた、こんなに平凡なんですね。私たちと同じ世界なんですね。すごいです」って言ってくださったんですが、ろう者はこの映画を観て「いや、面白くない」と言ったんです。

温又柔:(笑)。

イギル・ボラ:これはただ単に家にカメラを置いておいてただ撮った、それだけなんじゃないかって(笑)。「えっ? これの何が新しい話なの?」という反応でした。
私は文学においても映画においても、新しい視点を提示するというのがとても大事だと考えているんです。でも私もそうやって本を書いたり、映画をつくったりするなかで、同じように、温さんと似たような経験をしてきましたね。
あるとき、小説などの文章を書く集まりがあって、そこである人に言われたんですね。「ボラはいいね、ただ両親のことを書いただけで、普通に平凡な話を書いただけで本になるからいいね」と(笑)。

温又柔:本当にまったく同じですね(笑)。

イギル・ボラ:で、それを言った人というのが自分の両親が障害者でもなく、聴者だったわけで。

温又柔:ああ……。

イギル・ボラ:「自分は聴こえる両親だから、むしろろう者の両親はうらやましい」と言ったんですよ。

温又柔:今、ものすごい罵倒語が出そうなのを必死で我慢してます(笑)。


イギル・ボラ:でもそういう文学作品がないとか、そういう映画がないときに、最初にその道を作るというのは、やっぱりとても大事なことだと思います。というのは、それが物語になる、お話になるになるんだということを最初に提示して、気づかせてくれるからですね。

温又柔:そう、そう。「このストーリーは、どうしたらすでに語り尽くされた話にならず、もう一つの新しいストーリーになるだろうか」という問いはずっと続くんですよね。物語にする、一つのストーリーを創りあげる、というのは、経験したことをそのまま書けばいいというものではない。
ろう者の両親がいる人は他にもたくさんいるけれど、ボラさんのストーリーはボラさんにしか創りあげることのできないものです。
ただ、今日ボラさんがずっとおっしゃっているように、社会がコーダを認知してくれなければ、コーダとしては同じ話を繰り返さなければならないという問題もある。
実は私も、大学とか大学院の創作ゼミなんかで、「温さんはいいよね、書くべきことがあって」と言われたことがあります。「自分は普通の日本人だから、書く素材がないんだ」「マイノリティはその点、素材に困らないからいいよね」みたいな感じのことを。今の私なら、おまえみたいなやつは仮にマイノリティだったとしてもろくな小説しか書かないだろうからうるさい黙れ、と言い返すとこなんですが、当時の私は、マイノリティである自分が社会に対して感じる疎外感と、そうであるからこそ創作をとおして自分の居場所を獲得したい思いの間でいつも引き裂かれるような感じだったので、複雑な気持ちになりました。
彼らの言うとおりマイノリティであるからこそ私は、あれも書きたいこれも書かなければ、と思うのだし、確かにその意味では非常に恵まれていると思うんです。でも、表現者として素材に恵まれているという事実を、素朴に喜ぶのはやっぱりちがうな、と。私は表現者であると同時に、この社会を生きている一人の人間として、色々な意味でのマイノリティたちが置かれ続けている不遇な状況をなんとかしたい。
まあ、温さんはいいよね、と言うような人たちには、私が経験してきたこと、全部あげるよ、もう全部つかっていいから、どうぞそれを素材にこの私を納得させられる素晴らしい小説を書いてみてくださいねって(笑)。


イギル・ボラ:私は、温さんがお話ししてくださったように「日本で平凡に生きてきたから書くことがない」って言った人って、それは先天的なものなのかどうなのか? と考えてしまいますね。

温又柔:ああ、なるほどね。

イギル・ボラ:なぜかというと、人間は生きていくなかでそれぞれに違う経験をしているわけで、自分は自分、相手にはなれないですよね。例えば、ある両親の元に一人の娘として生まれたとしても、その両親の観点、両親の見方というものを100%全部受け継げるとは思っていません。
それで、結局は、小説を書いたり、映画を撮るというのは「人間の物語」を扱うわけですよね。人間の物語というのは本当にたくさんのレイヤーがあって、それを汲み取って作品にしなければいけないんですけれども、果たしてその映画を撮っている人たち、文章を書いている人たちはそのレイヤーをしっかり理解しているのか、それを理解できる感受性があるのか。常に自問をすると思います。だからそのために学ばなければいけない、学習することが必要だと思います。

そこで、こういう風にお話しする理由は何かというと、私たちは特別な環境で生まれたのかもしれないんですけど、だからといって何も学習してこなかったわけではないということ。たくさんの差別を経験して、その中で「ああ、あの人はどういう話をしているんだろう?」、また「わたしはどんな風に答えたらいいんだろう?」というように、今までたくさんの悩みがあり、たくさんの煩悩を通して考えてきたわけです。
先ほど話したように、私は子どもの頃から本当にたくさんの質問をされてきました。「あなたの両親は手話ができるの?」「手話というのはどういうものなの?」「ろう者というのはどういうものなの?」。こういう質問を受ける度に、「私の両親は聴こえないんですが、話せます。でもその話す言葉っていうのは音声言語にはならないんです」と説明するんですが、これってなかなか理解されないことなんですよね。
「私の両親は全然かわいそうな人じゃないんですよ」「顔の表情をこんなに大きく動かして、あるいは眉毛をこんな風に動かしてお話しするんですよ」っていくらやってみたとしても、聴者の方はやっぱりそれを間近で見ないと想像するのは難しいんだと思います。
だから、こう説明してみようかな、ああ説明してみようかなと、よくよく考えて、じゃあ文章でそれを書き出してみよう、今度は映画を通して見せてみよう、という風にいろいろな方法をとって私の両親の世界を伝えてきて、今も、私の両親の世界を説明する方法をずっと探し続けています。

温又柔:『きらめく拍手の音』を読みながらずっと私が感じていたのは、この本の著者であるボラさんは、きっとコーダという立場でなかったとしても、ストーリー・テラーとして生きていたんじゃないかな、ということだったんです。きょう、こうして実際にボラさんのお話をうかがいながら、自分の直観は正しかったなあと(笑)。
もちろん、ボラさんが撮った映画や書いた本は、私のような「聞こえる文化」しか知らなかった人間がこれまで意識を向けずにいた「唇の代わりに手で話し、愛し、悲しむ人たち」の世界について目を向けさせるし、彼らが「聞こえる人」中心のこの社会でどんな不自由を強いられていて、どんな苦労をさせられていたのか「啓発」する意味合いもあります。
でも、ボラさんの創作活動は、こうした啓蒙活動として以上に——もちろんそれも大事ではありますが——、イギル・ボラという、一人の類まれな感受性を持った表現者が、既存の言語で説明するには限界があった自分自身のストーリーを回復するというか、息を吹き返すための軌跡でもあるなと思います。そのことに、私は本当に感動してしまうのです。

イギル・ボラ:どうもありがとうございます!

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【#4 質疑応答】コーナーへ、つづく)

(2021年1月8日 代官山 蔦屋書店にて。韓日通訳:根本理恵)

〈プロフィール〉
■イギル・ボラ(Bora Lee-Kil)
映画監督、作家。1990年、韓国生まれ。ろう者である両親のもとで生まれ育ち、ストーリー・テラーとして活動する。17歳で高校中退、東南アジアを旅した後、韓国芸術総合学校でドキュメンタリー制作を学ぶ。ほかの著書に『道は学校だ』『私たちはコーダです』(いずれも未邦訳)など。ドキュメンタリー映画監督作に『きらめく拍手の音』『記憶の戦争―Untold』ほか。『きらめく拍手の音』は韓国で多数の映画賞を受賞。日本では山形国際ドキュメンタリー映画祭にて「アジア千波万波部門」特別賞を受賞、2017年の公開以降、日本各地で上映されている。

■温又柔
小説家。1980年、台湾・台北市生まれ。2歳半から東京在住。執筆は日本語で行う。著書に『真ん中の子どもたち』(集英社)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水Uブックス)、『空港時光』(河出書房新社)、『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)など。最新刊は、木村友祐との往復書簡『私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ』(明石書店)。

〈書誌情報〉
『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』
イギル・ボラ著 矢澤浩子訳 解説=斉藤道雄(リトルモア刊)
手話は言語だ。「コーダ」=音の聞こえないろう者の両親のもとに生まれた、聞こえる子(Children of Deaf Adults)の話。
映画監督、作家であり、才気溢れる"ストーリー・テラー"、イギル・ボラ。「コーダ」である著者が、ろう者と聴者、二つの世界を行き来しながら生きる葛藤とよろこびを、巧みな筆致で綴る瑞々しいエッセイ。
家族と対話し、世界中を旅して、「私は何者か」と模索してきた道のり。

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