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祈る

先日、Youtube GFP福音配信チャンネルの尼川匡志先生のこちらの動画が、私にとってずーーーっと理解の難しかったみことばを解らせてくださったことを記したいと思います。

https://youtu.be/hBYwLvcGF2w?si=aOaWgVvKdCFIhSZ4

私にとって難しかったみことばはこちら。

マルコによる福音書11章24節
ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
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私にとってこのみことばは、正直なところ、本当に判らないというか、この境地になれないというか、これを理解できる信仰を持たなきゃいけないというような「人間的な努力」によって理解しようと力づくになっていたみことばです。この境地になれない。なれたこともない。そのたびに自分の信仰の弱さに不安になり「このみことばが解るよう私の信仰を強めてください」と主に祈っていました。

動画の中で、尼川先生は以下のみことばを挙げてこう仰るのです。

ヨハネの福音書 5章 5〜9節
そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

尼川先生:
エルサレムにあった浸かれば病が治るといわれていたベテスデの池にはいつも多くの病人がいました。イエスが声をかけたこの男は38年もの長い間患っていた人。その人にイエスは目を留め声をかけたのです。「良くなりたいか」と。この病人は、イエスの「良くなりたいか?」の問いに「良くなりたい」と素直に言うだけで良かったのに言えなかった。その代わり「〜が連れて行ってくれない」とか「〜が先に行く」と責任転嫁の言葉が出てくる。長年の不遇は人を諦めの境地にさせることがあるのです。良くなりたいと期待するよりも、諦めるほうが楽だ、と思ってしまうことがあるのです。それでもイエスは構わずに重ねて言います。とてもシンプルに「歩きなさい」と。イエスは彼の奥底にある希望を引き出そうとされたのではないでしょうか。すると今度はこの病人は素直にイエスの言葉に呼応して「すぐに」歩き出しました。

(注:尼川先生の言葉を、自分なりの解釈で記しておりますので、正確な先生のメッセージはぜひ動画をご覧ください)

この尼川先生のメッセージから示されたことがあるのです。私はいつも祈るとき「主の御心でなければ、この道を閉じてください」とか「〜のようにしてください」というような、小賢しく理屈っぽい祈り方をしていると。それはきっと心の底に恐れがあるから。この祈りは聞かれないんじゃないか、という恐れと疑いがあるから、そして高慢な心があるから、直球で主に求められないのじゃないのかと示されたのです。

主は約束を違えない方。人間的な屁理屈など不要で、すべての創造主である主に、ただ幼子のように求めるだけでよいのに。私は素直さがなく、プライドが高く、謙虚な心もないベテスデの病人だったのです。

時期や方法はどうあれ、主の約束は必ず実現する。私がフォーカスすべきはタイミングや方法じゃなく、最善を実現してくださるという主の約束。

主が為さることは、私が自分の力で思いつく方法よりも、自分の期待よりも遥かに超えて良いもので、主はいつも最善をくださると聖書の至る所に書いてあるではないか。

方法とタイミングは主にお任せする。だからこそ、それがいま成されなくても、すでに叶えられたと信じて、その約束を握ることができる。

と、解ったのです。
なんという恵みでしょう。

加えて、「みことばを解らせてください」という私の祈りに、主がいま応えてくださったことを知るのです(ここでも私は「このみことばが解るように信仰を強めてください」という小賢しく高慢な心で祈っていました。ただ「主よ、あなたの言葉を解らせてください」とシンプルに求めるだけでよかったのです。何故なら「自分の信仰があるから主の言葉を理解できるようになる」と自分の信仰を誇るのではなく、何よりも前(さき)に在るのが主の言葉であり、主がすでに用意くださっている聖書の言葉を知ることにより、私の信仰が強められるからです。ヨハネの福音書1章1-3節)

私の通う教会は、24時間の祈りの家があります。24時間/365日、牧師先生方を始め、兄弟姉妹の誰かが絶えずとりなしの祈りを繋いでいます。主に対して祈るクリスチャンというより、ただみことばであるマナを食べ、ただ主と共にいる、主と共に生きている姿です。主と共に生きているから、彼らの口にはいつも祈りと賛美があるのです。

一方、私の信仰はまだ未熟で、柔らかいものを食べている状態です。でも、主は決して諦らめない方。遅々の歩みを励まし導いてくださる方。愛と忍耐の方。

私たちの神は、たとえ私たちが自分自身にがっかりし諦めてしまったとしても、私たちを決して諦めず見放さず、大きな愛で希望を与え続け、励まし続けてくださる方であること、そしてどんなに私たちが弱っても、イエスにあってすでに勝者であることを思い出させてくださることを感謝します。

私たちの祈りは、最初は切々とした訴えや願い、嘆きから始まりますが、祈り続けているうちに、それが主を賛美する言葉に変化し、最後には主への感謝の言葉が溢れ出す祈りになっているように思います。恵みをくださる主に感謝です。

ヨハネの福音書 1章 1〜3節
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。


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