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イエス・キリストの復活が与えたインパクト

イエス・キリストは十字架にかけられ命を落とした後、3日目によみがえられ、ご自分の弟子たちやその他500人以上の人々の前に姿をあらわし、食事を共にし、励まし、40日後に、皆に約束を残し天にのぼったと新訳聖書にあります。

現代人の私たちにはにわかに信じがたく、聖書を伝説や物語と印象づけてしまう原因となる逸話のひとつかと思います。

現に、イエスと共に過ごした弟子の一人も、イエスの復活を信じられず、イエス自身に「槍でつかれた脇腹の穴に指を入れさせてください」と頼んでいます(もちろんイエスはそれを許しました)。

そして40日後に、「わたしは天にあなたたちの居場所を整えるために去る。父(神)の家には部屋がたくさんあるから。用意ができたら必ずあなたたちを迎えに来る」と約束してくださり天にのぼられました。それは旧約聖書に書かれていたイエスについての預言の通りでした。

新訳聖書はイエスが天に上られた後45年〜55年の10年間で書かかれましたが、イエスの死と復活についても事実として記されました。書簡のなかに「キリストの復活を見た大多数は今なお生き残っています」とあります。そしてパウロは書きます。
「もしキリストの復活が嘘であったら我々が宣べ伝えていることも、我々の信仰もなんと虚しくなるだろうか。キリストの復活が嘘であれば、私たちはいまなお罪のなかにいる」

新約聖書はその信憑性が研究者たちによって証明されている書物だそうです。この地上の古書のなかで現存している写本の量が最も多い、しかも字義通り桁違いに多いことから、その研究と信憑性が裏づけられているのです。

キリストが生きている間、一番近くにいた弟子たちでさえイエスを神だと信じきることができていなかったことを、新約聖書のなかで弟子たち自身が正直に告白しています。ところが、イエスが死に3日後に復活されたのを目撃した後、弟子たちは激変します。自分たちの命も顧みずに、煮えたぎった油の中に沈められるような拷問を受けても、流刑にあっても、「イエスは復活した、神だった」と主張し続けます。そう言えば殺されることが判っていてもです。弟子たちの胸にあったのは喜びだったでしょう。イエスの復活が、我々の永遠の命と希望を約束してくれているからです。それが事実であると知ったからです。
もしイエスが彼らの作り上げた虚像だとしたら、果たして自分たちの嘘のために命を落とすことがあるでしょうか?

このことからも、イエスの死と復活は事実だったと判るのです。

新約聖書の書簡のひとつ、コリント人への第一の手紙第15章は、イエスが十字架にかかり死に、3日後に復活した55年後に書かれたものです。この5章の内容は、書かれた当時すでに多くの教会で事実として読まれていたといいます。

データや参考本を紹介しながら、いつも判りやすく聖書解説をしてくださる牧師先生が、聖書の信憑性についてメッセージされている動画を載せました。

ニューコミュニティチャーチ東京
チョ・ドリュー牧師

https://youtu.be/FuJ4qYw0s_Q?si=Gl58zla9tQvGPS4T

キリスト教は宗教ではなく、福音(グッドニュース)です。「〜をしなさい」「こうあるべき」という道徳や善行を積みなさいという教えではなく、「あなたの罪はイエスによって贖われた。あなたの代わりにイエスが身代わりになってくれたのですよ」という祝福の音信です。神がどれだけ私達を愛してくださっているか、これでもかこれでもかと繰り返し繰り返し書かれているのが聖書です。私たちのためにご自分の命を捧げてくださる神、それが聖書の神です。神はすでに手を私達に差し伸ばしていてくださり、私達はそれをただ受け取ればよいのです。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれているミケランジェロの「最後の審判」を観たことがあるでしょうか?あの絵で、体を取り出して腕をまっすぐに延ばせるだけ延ばして、アダムの手を摂ろうとしているのが神です。それと比べてアダムの腕と手首は曲がり、まるで神を拒絶しているかのようです。神の惜しみない愛を知っていたであろうミケランジェロは、その絵に神の大きな包み込む愛を描いたのかもしれません。
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コリントへの第一の手紙15章
兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。
もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。









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