善悪について

この世の中は、2種類の人間がいると思う。

①損得の価値基準で生きている人
②善悪の価値基準で生きている人

人は同じ価値観を持つ同士で群れる。
①と②同士は、価値観が合わないゆえに相容れないだろう。

①の世界で生きている人たちの人生観は、成功か失敗か、優劣か、喰うか喰われるか。損か得か。もしかしたら、人から受ける優しささえ、見返りや、なぜこの人はこんなに優しくするのか、と邪推する思考癖さえあるかもしれない。この世に本物の優しさがあることに気づけないかもしれない。優しさ=弱さとさえ捉えるかもしれない。

彼らの幸せは、自分が幸せになること。他者に、環境に、自分を幸せにしてもらおうと考える自己完結型。算盤を片手に損得勘定の駆け引きをしている状態。そこに、他者の幸せを願い、他者のために自分が損を選ぶとか、自分が一歩引くことで他者のより良い未来を祈る思いは含まれていないように思う。

②の世界の住人は、善悪から照らし合わせて、自分はどうあるべきか、という判断基準で生きているように思う。

では、善悪の判断は?
なにが善で、なにが悪なんだろう?

聖書では、私たちを造られた神が、明確にそれに答えを出してくれている。

箴言6章16節~19節
主の憎むものが6つある。
いや、主ご自身の忌みきらうものが7つある。
高ぶる目、偽りの舌、
罪のない者の血を流す手、
邪悪な計画を細工する心、
悪へ走るに速い足、
まやかしを吹聴する偽りの証人、
兄弟の間に争いをひき起こす者

6つでなく、いや7つ。
聖書には、こういう人間くさく親しみを持てる言い回しがある。

さて、アダムとイブが食べた木の実は、知識の実だった。実はこれは善悪を見分ける実だ。これにより、アダムとイブを祖とする私たち人類は、神の定義する絶対的な善悪ではなく、自分の都合のいい判断で善悪を区別する狡い知恵と自分を過信する心が芽生えてしまった。そのため、神を要らないとし、神の存在を無視し、神から離れて生きるようになってしまったのだ。

現に、神に罪のない完全な者として造られたはずのアダムとイブだったのに、蛇(悪魔)にそそのかされて知識の実を食べてしまった直後、それを知った神に「食べたのですか?」と訊ねられると、とっさに言い逃れの嘘をつく。そして人のせいにする。その木の実だけは食べてはいけないと言われていたのに勝手に食べてしまったことを、アダムはイブのせいにし、イブは蛇のせいにする。人類最初の嘘(罪)である。

蛇(悪魔)のそそのかしは、それだけ巧妙だったとも言える。木の実を食べてごらんよ、と蛇にそそのかされたイブは最初はちゃんと断れた。「食べてはいけないと言われてます」と。そこで蛇は、実に巧妙に真実に少しの嘘を混ぜて、イブが約束を破っても、それは大したことではないだろうと思い込ませてしまうような、実に狡い言い方で誘惑したのだ。この箇所は、現実世界で私たちが悪の手口に乗らないための良い知恵となると思う。神様が聖書を通して語ってくださる神の知恵が、聖書には散りばめられていて、それは私たちの実生活に活きる知恵となる。

私たち各々の持つ善悪の判断は本当に正しいのだろうか? 時として、自分自身の過ちを測る定規は長く、他者の過ちを測る定規は短くないだろうか? 自分に甘く、人には厳しくないだろうか?

そして私たちは、悪だけでなく善でさえ、独りよがりに定義している。食べたものは悪だけでなく「善悪」の実だから。独りよがりの善とは? いろいろあるけれど、なかでも、人に誇りたいがゆえの善行を神は良しとしていない。「右の手がする良いことを、左の手に見せないようにしなさい」「祈るときは小部屋で、誰にも見られないところで祈りなさい」というみことばが聖書にある。私たちは、これみよがしの善行をしていないだろうか?神は私たちの心の中の動機を見られるお方である。このたぐいの善を、神様は喜ばれない。

神は善悪を明確に定義している。そして、神は、悪を憎むお方である。
それを知ってこれからの人生を生きる時、私たちの毎日は確実に良いほうに変わる。人間関係も変わる。

たしか、これは中国の故事だと聞いた覚えがあるけれど、天国と地獄は同じ環境だそうだ。
豪華な料理が多く盛られた、大きな丸テーブルがある。その周りを大勢の人たちが囲んで座っている。彼らの手にはお箸。1mはあろうかというような、とてもとても長いお箸を握っている。

天国にいる人たちは、その長いお箸で、周りの人や向かいに座る人たちの口元に食べ物を運んであげている。誰もが人から食べ物を受けて、皆のお腹が満たされ、笑顔に満ちている。

地獄にいる人たちは、長いお箸で、なんとか自分の口に食べ物を入れようとする。でもお箸が長すぎて自分の口に入れられないがゆえ、ご馳走を目の前にしているにもかかわらず、皆が飢えて、殺気だっている。

私はキリスト者なので、聖書に書かれている天国と地獄を信じている。なので、この天国と地獄の描写は相容れないのだけれど、言わんとしていることは、とてもよく解る。

損得の世界で生きている人たちは、この故事で言うなら、地獄に戸籍を持つ人たちだろう。長いお箸では食べられないので、さて、手づかみで食べようか、それとも、他者を騙してなんとか自分の取り分を得られないか、ああでもない、こうでもない、と他者を出し抜いて狡く立ち回ろうとしている人たちに見える。

どちらの世界に住みたいだろうか。私たちは選べる。
もっと言えば、自ら②の世界を作り出すことができる。まずは自分の周りから始めてみよう。

神様は、御国(天)をこの地にもたらすことを、私たちに命じている。それは、私たちキリスト者に与えてもらっている使命のひとつだ。

この世が、天国のように、誰もが愛を与え合い、争いのない世界になったら、どんなに素晴らしいだろう。

イエス様は「あなたの宝を積むところに、あなたの心はあるのです」と言われた。
地上の世俗的なことに宝を積めば、あなたの心は地上の諸々に執着してしまうだろう。
私たちはやがて天にいる父なる主の元に帰る。
私達の戸籍は、天にある。
天に宝を積みながら毎日を送りたい。

ピリピ人への手紙3章20節
私たちの国籍は天にあります。

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