見出し画像

【特別編】35歳のおじさんが、なぜ今のドラえもんに魅力を感じないのかを分析してみた。

<はじめに>

これはあくまでも僕自身による自分自身の分析であり、思考が向かったベクトルは自分の内面以外にはありません。カテゴリーとしてはエッセイとかそういう物であります。でも、批判とかもあります。あなたの好きな作品をけなしているかもしれません。もし気分を害したらごめんなさい。

今回は、いつもやっている #1コマでどれだけ語れるかチャレンジ  ではなく、なぜ僕が今のドラえもん、特に映画版に魅力を感じる事ができないのかを分析してみたいと思います。

ドラえもんおじさんは、サブである。

ちょっとバカみたいな見出しになってしまいましたが、まず第一に考えられるのが僕が35歳のおじさんである。という事実でした。

要するに、大人になってしまっている訳です。

身も蓋もありませんが、これはもう仕方がないような気がします。ただ、多くの方がそうであるように、好きで35歳になったのではありません。

ですが一般的に、子供向けに描かれたマンガについて、大人がああだこうだ言うのはいささかおかしいという事もわかります。・・・いささかじゃないですね、相当おかしいかもしれません。

なぜならば、何といってもおじさんですから、他にやるべき事や気にすべき事もあるはずです。

ドラえもんのメインターゲットは、いつでも言うまでもなく「今の小学生」です。そして限定する訳ではありませんが、その頃の年齢の特権として「わき目もふらずに夢中になっても良い」という物があるような気がします。

単に好きで趣味としてやっている僕が、どう考えても「わき目もふらずにドラえもんに夢中になっても良い」訳がありません。

だから、僕は「現行するドラえもん」のメインターゲットではない。
という事がまず前提に来るのではないかなぁと思うのです。

僕のようにかつて「ドラえもん好きな小学生」だった人たちは、ドラえもんというコンテンツのメインではないサブターゲットとして存在しているのです。主と副で言えば、圧倒的にです。

ということで、自分がドラえもんのサブターゲットである。という事を認識するところから、この分析を始める事にしました。

しかし、これは予想以上に辛い事でした。

自分が好きな物に対して、自分はメインではない。と思わなくてはならないのです。誰しも、自分が好きなコンテンツに出会ったのであれば、自分こそがそれを一番に好きだと思いたいのではないでしょうか。

ですがまず、そこを認めてから考えるところから始めました。そうでないと、今のドラえもんには向き合えないと思ったからです。

過去作を美化しすぎているのではないか。

次に考えたのが、僕が子供だった頃見ていたドラえもんの映画を、僕自身が美化しすぎているのではないだろうか。という事でした。

子供の頃に受けた感動や衝撃というのは、時を経ても色あせずに印象深く残りがちです。きっと感受性の問題だと思います。だから時を経て実際よりも自分の中で大きくし過ぎてしまい、それが現行の映画ドラえもんを穿った目で見てしまう原因の一つになっているのではないか。という分析です。

子供の頃の感性で見たら、本当にハラハラドキドキしたけれど、今見たらそんなことない。という事ですね。ドラえもんに限らずに起こり得る事です。

いずれにしても僕自身がそんな感性になってしまっているので、現行の映画ドラえもんを見た時に心に響くものを感じないという事なのかもしれません。受け手である僕の感性の鈍さの問題なのではないか。と考えた訳です。

僕のようなサブであるドラえもんおじさんは、この事をなかなか認めるのが難しいのではないかと考えます。僕も、自分で考えておきながら相当嫌な気持ちになりました。自分の感性は、子供の頃から変わらずに素晴らしい物だと思いたいからです。

しかし、年齢を重ねたのであれば子供よりも感性が鈍るのは、人間として避けられない部分ですし、これは言い換えればある意味で「成長」した。または成長してしまった。という事でもあるのではないでしょうか。

念のため、アマゾンプライムビデオでもう一度ドラえもんの映画を全て見直してみました。さらに、大長編の単行本も読み直してみました。

・・・いや、めちゃくちゃ面白いんですよ。

ストーリーを全て知っているのに、ドキドキとワクワクが止まりませんでした。感受性が鈍ったはずなのですが、これは一体どうしたことなのでしょうか。

しかしそう思ったのは最初の内だけ、映画に至っては2000年前後公開になっていくと、やはり途中で見ていられなくなっていきました。物によっては最後まで見るのが苦行になってさえくるのです。

感じてしまう違和感。その正体とは?

次に話をしたいのは、ストーリーの展開の仕方についてです。

大長編のテーマや世界観はいくらでも不思議・不自然でも全く構わないと思います。むしろ歓迎です。

ただ、そのテーマにのび太達が向かっていく必然性・動機に不自然さがあるように思ってしまうのです。言い換えると、どこか感情移入しにくいまま進んでいくのです

この流れで、そうはならないでしょ。と言いたくなってしまうのです。それでクライマックスに行かれてしまうと、なんだか何をやってんだかわからなく感じてしまうのです。

なぜ、僕はこう感じてしまうのでしょうか。

その答えを探すべく、大長編のコミックス版を読み直してみました。

そして、僕が違和感を覚えるところに気が付きました。

これの使い方です。

大きな声をあげた時や、決意めいたことを言った時、必殺技の名前を言った時などに使われる「ハリ吹き出し」です。ドラえもんの中だと、ここまでとがっていない事が多いですね。

物語の動機となる部分や、後半のクライマックスあたりだと、割と多用されています。

これは、もちろん話をわかりやすくしている。という言い方も当然できます。このセリフは重要ですよのサインでもあります。

緊迫している状況だと読者が理解するのも、何か重要な発見や決断をしているとわかるのも、このハリ吹き出しだからではないでしょうか。

だから、ハリ吹き出し自体が原因ではないと言えます。そして、そうなると残念ながら問題は、その中身になってしまいます。

つまり、使いどころとハリ吹き出しの中のセリフです。

特にドラえもんとのび太のセリフです。

「〇〇じゃないか(だろ)!!」

この〇〇には、大体の場合「友達」とか「仲間」じゃないか。が入ります。この展開の多いコト多いコト。正直に申し上げてうんざりです。太陽王伝説あたりは、ちょっともう辛いほどでした。

新しくなるほど、これは顕著な傾向でした。

僕が下の記事でも書きましたが、こういう事を大っぴらに言わない事がドラえもんの映画の良さだったハズです。大魔境のラスト前のシーンのように、手を取り合ってしみじみと友情を分かち合ったりするものなのです。

この風潮のまま大長編・映画化された結果どうなったか。

五月蠅いというか、なんか気恥ずかしい。

そういう演出が新しいドラえもんには多くなっていきます。

僕のような原作趣向の人間は、何気ないシーンが持っている魅力に魅了されていると思います。そこには間があったり、余白があったりするからです。

しかし、今のドラえもんはどうにかして感動させようという脚本の意図があり、ともすれば薄っぺらな綺麗事ばかりがぎゅうぎゅうに並ぶのです。例えば、取ってつけたような別れもそうです。

そこが見てられない要素なのではないかと考えました。

挙げていけばキリが無くなってしまいますが、言わせてください。物語の終わりには何が残っていたかについてです。

時空と距離のせいでもう2度と会えないであろうロップル、クレム、チャミー。敵対しつつも何とかお互いの妥協点を見出した「竜の騎士」、「雲の王国」。最後に奮起する事を誓ったけれど、もう冒険できる年齢ではないであろうシンドバッドに見る悲哀「アラビアンナイト」。結局、文明は破壊され原始人のように暮らす事をチャモチャ星の人々の今後を憂う「ブリキの迷宮」・・・。

このあたりにある物、本質をもっと理解して欲しいと思います。

と同時に、僕が薄汚れた大人だから「そんなハズねーだろ」と思ってしまうだけで、子供たちにとってはドラえもんはこうあるべきなのかもしれないな。とも思う訳です。

綺麗事だけじゃない。

という部分が魅力の1つだったのではないでしょうか。友情があれば、仲間がいれば、それで全てがうまくいく。訳ではないと思うのです。上に挙げた決していい事だけじゃないモノを、乗り越えよう。それが成長でしょ。が醍醐味なんだと考えています。

他にもこんな点があげられます。

それは最後までどうなるかわからなくして欲しいという点です。

たとえば、「海底鬼岩城」でポセイドンに捕まったしずちゃんは、首をはねられる寸前でした。ギリギリできたドラえもんまで倒れる始末。小学5年生ですよ?子供の頃に見たあのシーンは、ガタガタ震えながらだったと記憶しています。あそこでバギーちゃんが出てこなかったら。自己犠牲をいとわずに飛び込んでくれなかったら。世界は鬼核弾によって滅亡していた可能性だってあります。

ドラえもんの大長編は、犠牲だって伴う
そういう紙一重の中にある物なのです。

それが、フー子をあんな恐竜みたいにしてくれちゃって。あの目玉だけで感情表現をするから最後に家を飛び出す時の決意めいた眼差しが最高なんですよね。それによってこちらの気持ちが増幅されるのに、豊かな表情を付けてしまっては台無しなんです。この眼差しを見せて欲しかったんです。

イチ本人がのび太に会いたかったから時空を超えたというのは、感動的ではありますが、のび太がみんなのリーダーとして残していったイチはそんなやつじゃないハズです。最後まで群れの皆を守って生きたハズです。そういう風に思いたいのです。何せのび太より頭がいいのですから。まぁ最後には国の為に残ると言いましたが。要するに動機が良くないのです。イチの一族は原作では未来の地球に気候変動が予想されるため、地球を捨てて旅立った訳です。そのくらいドライなんですね。もちろん先祖と子孫では温度差があって当たり前ですが。

という風に、映画用にわかりやすくしたため先の展開が見えるような内容になってしまい、薄っぺらな感動を押し付けてくるのは大失敗だと思います。イチの子孫は地球を飛び立っており、もう地球上にもいないのです。そういうやるせなさみたいなものがあるのです。そこがいいのです。

何度でも言いますが感動するのではなくて、感動してしまう。のがドラえもん映画だと感じています。

しかしながら、2000年前後くらいから感動させるための映画を作っているので、物語そのものの良さを二の次にしてしまい、最初の頃の名作を結局超えられなくなってしまったのではないかと思います。

それで段々と焦りが生じて来て、わかりやすく大声で「友情」とか「仲間」とか、「家族」とか「明日」とか「未来」とか何度も言っちゃうんです。

それがダメなんです。だから見てらんないんです。それは綺麗事という落としどころであって、本当に伝えたいメッセージではないんじゃないでしょうか。

最後までF先生はわかりやすく物語を作ってきたけれど、決して小手先の技術で感動させるために、話を犠牲にしてきた訳ではないと思うのです。

そこまで言うなら、見なきゃいいだろ。

まさに、その通り。グゥの音も出ません。

でも、僕はドラえもんが大好きなんです。現在、ドラえもんとして存在しているアニメ・映画についてだって知りたいのです。

ドラえもんを応援するのならば、落ち目の時にこそ応援するのが本当のファンです。

というか、落ち目だと思っているのは僕だけかも知れません。サブのドラえもんおじさんが、単なる回顧厨と蔑まされるのも不思議ではありません。

だって、今だってドラえもんは大人気なのですから。落ち目ではありませんね。

本当のところ、時代と共に新しく変化していくドラえもんに、おじさんが追いつかなくなっただけなのです。今の子供たちや、当時の子供たちが楽しんで見ていれば、それがF先生の目指したところなのだから、何も問題ないんじゃないだろうか。とも思う訳ですね。

そう思うと僕の今までの主張が、おじさんがドラえもんに対して「僕の面倒を見てくれていない」とワガママを言っているようなモノに思えてきました。これは大いに反省すべき点であると感じています。不満を述べているのは偏屈なおじさんなのですから。

どんな事でも良い点を見ていくべきであって、過去作や原作を引き合いに出して現行版を批判するのは、誰の得にもなりませんし、もちろん僕の得にもなりません。今、ドラえもんに関わる人達にも大変失礼です。

長く続くコンテンツだから、多くのファンがいて当然です。そこにいろんな考えと、感じ方が存在する事自体がドラえもんの懐の広さを表しているのだと思います。

僕が理解できなくて不満だという事を、他の人にばらまいても仕方ありません。動機が分からんとか、話が浅いとか、感情的すぎるとか、展開が幼稚だとか言っていても何も始まりません。

新しいドラえもんは新しいドラえもんで素晴らしいのです。新しいドラえもんを見れているという事自体が感謝に値するのです。

だからこれを読んで気を悪くした方がいたら、本当にごめんなさい。

とはいえ、この先も僕が新しいドラえもんを受け入れるのが難しい場合もあるでしょう。そんな時は、僕はそっと机の引き出しを開けて思い出すようにしようと思います。そこにドラえもんはいなくても、思い出があたためてくれるはずなのです。

そして、それを乗り越えて僕が成長するべきなのです。

結論

なぜ35歳のおじさんが今のドラえもんに魅力を感じないのか。

ドラえもんは子守りロボットなので、35歳のおじさんの子守りをする必要などどこにもありませんが、僕がそれに今まで気が付いていなかったから。

これが結論です。

皆さんはとっくに気が付いてたのでしょうか?・・・なんだか恥ずかしいです。穴があったら入りたい気分です。

これからも僕なりにですが、ドラえもんを好きでいたいと思います。

読んでいただきまして、ありがとうございました。




いいなと思ったら応援しよう!