#22 よかったらわしの会社へこないかね。
経営者の最大の仕事は「採用・雇用」である。
経営者は起業家と言い換えることもできる。起業家は、自分を経営者として会社を興し、何らかの目的を持ちながら社会に対してそれを果たそうとする。
そのために必要なのは「組織」だ。この組織を作るという事は、人間が1名以上存在するという事である。経営者以外に集まったり集められたりした人材は、その組織の持つ目的を果たすために働くことが求められる。
その人の管理を経営者や経営陣が行い、そうなって初めて企業としての存在価値が社会の中で大きくなっていく。
社会の中での存在価値を大きくしていくこと。社会に対しての「良い影響」を及ぼすことが企業の存在価値であり、それによって働いている人やその家族が幸せになる事が、経営者と従業員双方にとってのWin-Winな関係である。
実は私こと「ちたん」は、企業の代表を9年ほどやっている。いうも恥ずかしいような吹けば消えてしまうような小さな会社であるが、それでも創業者兼経営者である。社員だって数えるほどはいる。
だから何だと言えばそれまでであるが、上に書いたような内容は、日々私の頭の中に駆け巡っては過ぎ去っていく。常にそういう事を気にしているし、言うなれば思考から離す事が出来ないトピックスの一つであると言える。
つまり、会社とは?とか、これからの社会に必要なモノ・コトとは?とかそういう事をやたら考えざるを得ないのが経営者である。(事業が定まっていないだけかも知れないが)
同時に、こうも考える。
では、それを成す事が可能な人間は今この会社にいるのか?もしいるのならば、その仕事をさせられる状況なのか?いないのであれば、どうやって補うのか?と。
ここで私の悩みの一つを聞いてもらいたい。
本来事業とは、
①いる人間で出来ることをやっていくべきなのか。
②やりたい事業に必要な人間を集めるべきなのか。
どっちなのであろうか。
①の事を考えた時、一見現実的なようではあるが、起業するというリスクまでテイクして会社を経営しているのに、なんだよやる事も他人任せかよ。というような何か一抹の情けなさを感じる。
②で考えた場合、やりたい事業がどのような事かによるところは多いが(というかそれが全てだが)、今それに必要な人間がいないのであれば、それはもうすでに「無い者ねだり」であり、絵に描いた餅の如き空疎さがある。
とはいえ、理想は②である。
つまりは、成すべき目的に賛同したり、魅力を感じた人間が集まって立ち上がるのが本来である。その方がモチベだって高そうである。
私のように何となく集まってしまった人たちを、どうにかこうにかして食わせるために日々神経を擦り減らすだけの姿が、「経営者の本来の姿」ではなさそうである事はここでしっかりとお伝えしたい。
という事で、人を見る目を通して、会社に必要な人間をどうやって集めるか。目的達成のための人間をどうやって会社に引き入れるのか。これは永遠の課題であり、テーマである。
そんなことを考えていたら、このコマが目に飛び込んできた。
てんとう虫コミックス第30巻収録「することレンズ」から、ラスト落ちの1コマである。
しずちゃんから「ネズミが飛び出すびっくり箱」を貰ったのび太。ドラえもんを驚かそうと箱を開けさせようとするが、不審に思ったドラえもんは、これからしようとしていることを見透かす事の出来るひみつ道具「することレンズ」で、のび太のイタズラを見破る。その後、外を歩きながらいろんな人が使用としていることを見て歩くドラえもんとのび太。その中に、誘拐ひったくり・強盗をしようとしている男の人を見つけ・・・というストーリー。
この男の人のやろうとしている犯罪を止めたのは、「ドジバン」というひみつ道具である。貼ればやる事全てが失敗するという、要はドジになってしまうバンドエイドである。
もう一度言う。
やる事全てが失敗するドジになるバンドエイドである。
このコマを見るとわかるがこの男はドジバンをつけたままで、就活を成功させた。
何をやっても失敗するはずではなかったのだろうか。失敗するという事は、目的を果たせない。という意味であるはずだ。ドジバンの効果は、時間制限的なもので切れてしまったのであろうか。
このあたりを、もう少し本編のストーリーからひも解いてみよう。
では、男のやろうとした犯罪をおさらいする。
①誘拐 ②ひったくり ③強盗 である。
ドジバンを貼られた後の男は、まず①誘拐に失敗した。女の子を抱きかかええて走ったら、偶然にも落ちてきた工事現場の鉄骨から救う事になった。
セカンドバッグを抱えた男性から、男は②ひったくりをしようとバッグを取り合い殴り合いになるが、ちょうど成功しそうなところでバッグの本来の持ち主が現れて「盗まれたバッグを取り返してくれてありがとう」と感謝されてしまう。これも失敗である。
さらに留守の家に③強盗に入るが、火事を目の前にしてしまい、強盗どころではなく火事を消す事に集中してしまい、消し終わったころに家主が帰ってきてしまい、再度感謝される。しかも①で助けた女の子とそのお母さん、そして、②で助けたバッグの持ち主がその家の家主であったという失敗をしたのである。
それぞれの行為が失敗するのは、ドジバンの効果だと考えられる。しかし、それに付随して起こっている「人助けという結果」は一体何に起因するのだろうか。
このコマの前に、男は泣きながら家の主人に不幸な身の上を話している。それを踏まえると、下記のように整理できる。
⓪人の迷惑なんか知るか!もうやけくそだ!自分なんかどうなったっていい!だから、①誘拐したり、②ひったくりしたり、③強盗だってしてやるんだ!
ここまでひも解けば、非常にわかりやすい。男は自暴自棄なのである。
男の方針は、どうなったっていいから犯罪行為をやってやるんだ!
であり、
男の行動は、誘拐、ひったくり、強盗という具体的な物になっている。
一見、ドジバンが効果を表しているのは、この男の行動(誘拐など)に対してなのかと思われがちであるが、私はそうではないと考える。
この自暴自棄というのは、自分の身を粗末に扱い、やけくそになること。という意味である。つまり、この男の方針である自暴自棄こそがドジバンの効果によって失敗したのだ。
どうなったっていいから犯罪をしてやる → 人を助けて感謝される。
自分なんてどうなったっていい → 救い手になるような人に出会う。
このような構図である。
このように考えると、いかにこの話のコンセプトが首尾一貫しているかがわかる。乾いた大地に水が染み込んでいくかのように、腑に落ちる。
・・・が、これだけでF先生は終わらないのだ。
今回取り上げたコマはラストカットである。このコマでこの話は終わるのだ。だから、誰もが思ったはずである。おい、待て待て。と。
ここで、もう一度ドラえもんとのび太の表情を見ていただきたい。混じり気のない笑顔である。
では、言わせていただきたい。
「めでたしめでたし。じゃねーだろうが!?」
「どうすんだ、この後あの人!?」
「早くドジバンを剥がしてあげてよ!」
「はやく上着を脱いでって言ってよ!」と。
そう、男の背中にはドジバンが残ったままである。という事は、このままでいいはずがないのである。混じり気のない笑顔で帰路についてる場合ではないのだ。
男がせっかく手に入れたチャンスは、その同じくそのチャンスの原因であるドジバンによって、ボロボロに壊されるのである。そしてこれは、「確定した未来」だ。
何故ならばドジバンの恐るべき効果は今、解説してきた通りなのだ。
そうなると、私としてはこの家の主人に同情せざるを得ないのである。この男は、これから何をやってもドジばかりで、失敗するのである。
果たしてそんな人を、雇用したいだろうか?
ただし、こうも言い換えることができる。
男が自暴自棄になるように仕向けることで、会社に利益をもたらす可能性がある。そうなるようにすればよい。
・・・とおもったが、これは恐ろしい発想である。ブラック企業と言われても仕方がないかも知れない。
しかし、人材をどのように活かすかは、経営者の采配一つだ。特性とか個性を理解できれば、こういう方法も無くはないのではないだろうか。
さらに個人的には、こんなに情に流される経営者もどうなのだろうか。と思うところもある。
「失敗して未遂に終わったばかりか、人助けをしてしまった男」は、結果として良い人のように見えるかもしれないが、一度は自暴自棄になり責任を放棄しようとした男なのである。
それは、それ。これは、これ。である。
いずれにしても、この後の展開を考えるとゾッとする事ができる。先ほど述べたように、ドジバンの効果が時間で切れることを祈るだけである。
そうなるのかどうかは、だれも知らないが。
実は現行のアニメでこのエピソードが放送された時は、男が火事を消している最中にドジバンが剥がれる描写がある。これは、積年の疑惑に「答えという光」が差すかのような有能な名采配である。
しかしその一方で「これ、もしかしてこの後大変な事になってしまうのではないだろうか?」という見方が出来なくなった。という事でもある。どちらが正しいか。は議論の的ではない。どちらであっても、この話は面白い。
それに「することレンズ」という道具はキッカケでしか無く、後発の「ドジバン」がさらっと出て来て、オチを作るという構成がすごい。することレンズで引っ張りたくなるのは、平凡な発想なのだろう。
ひとつのひみつ道具にこだわらずに話をどう展開させるべきか。そして、ハッピーエンドとバッドエンドを同時に作るという事が、もし、意図的だとしたら。いや、きっとそうである。
そして、このような議論を巻き起こして長く楽しんでほしいと、F先生なら考えていたのだろうと思う。
きっと私たちがこうすることを「することレンズ」で見ていたに違いないのだ。