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英語の劣等生は優しくされる?の法則

かなり久しぶりに英語「で」わりと専門的なことを学ぶという講座に挑戦している。

講座が行われる施設は、日本でありながら英語で教育をしている機関なので、廊下で人とぶつかりそうになったときや、エレベーターに乗り込むときなど、ちょっとした声掛けが必要な場面で、英語を使うべきか日本語を使うべきか迷う。

英語が第1言語の人もいるだろうし、日本語が第1言語の人もいるだろうし、日本語があまりわからない人もいるだろうし。

授業では、なかなかうまく発言できない。でもそれは英語力が不十分というより、言うべきアイデアが出てこないという発想の貧弱さや、対象となる素材に対する読みの甘さや理解不足から生じている。

自分には知らないことがたくさんあり、わからないことも山ほどあり、一生、学び続ける要素に事欠かない。その気付きには多少落ち込むが、幸せなことだなあと思う。いつまででも飽きずに学び続けることができそうだから。

私は自分が「英語ができる」と思うことは一生ないだろう。本当はもっと努力すべきなのだろうが、そうしたとしても「完全に習得」することはあり得ない。また、努力できないとしたら、そうする必然性を感じられないのも、自分の運命(?)。

実は母語の日本語でさえ、「マスター」しているとはまったく思っていない。言語はそんなに浅いものではない。

講座では、クラスメートが優しくしてくれているような気がなんとなくして、それは私が劣等生だから?などと考えてしまう感覚も、懐かしい。

人は他者が自分より「下」だと思うと、あからさまにばかにするか、優しくするか、のどちらかではないだろうか?(「得体が知れない」と思えば、避けるというのもあるかもしれない)おそらく後者のタイプが多いのではないか。

しかし、それは構わない。自分も同じことをしていないかと顧みる機会になるし、怒る必要などない。それで向上心に火が付く人もいると思うが、私はむしろ自分にできること、できないことを改めて見つめて、ほかの人はあまりできない・やっていないことで自分に「できること」があったらいいなと思いながら、「自分は自分」として勝負(ではないけど)しようと考える。

時には身の程知らずな、大胆な行動を取るのもよい。英語がネイティブレベルの人が多い環境に身を置いて何かを行うのは、その一例。自分は「まだまだ」、と思えるのは幸せだ。

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