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『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治著:「犯罪を防ぐ認知機能向上の方法を提案する本」に感じた違和感と気持ち悪さ

「犯罪者を納税者に」するという著者の主張

児童精神科医として病院や少年院で働いてきた著者が、現在の日本の基準では知的障害とは見なされないが実は困難に直面しているという「境界知能」の人々や発達障害の人々にに注目し、犯罪につながってしまう認知力の弱さとそれを向上させるための方法を提示した新書。

タイトルの「ケーキの切れない」は、例えば「ホールケーキを3等分してください」と言われて、どう切ったらいいのかわからない少年(本書では性別にかかわらずこの語が使われている)が少なからずいることを指している。横半分に切った後、その上半分をさらに横に切るとか、縦半分に切って、その左半分を横に切るとか。

そうした少年たちは、読み書きも計算もできず、認識能力も低いので、犯罪を犯しても、その深刻さが理解できず、被害者のことを聞かせて反省を促しても、口先だけで反省していますというだけで実際はわかっていないから、再犯を繰り返す、というのが著者の主張。

だから、認知力を向上させるトレーニングが必要で、それは少年院だけではなく学校でも同様とのこと。これまでの実践によると、トレーニングで「できる」ようになっていく少年たちは学びを楽しみ、意欲的に取り組むようになっていくという。

トレーニングの具体的な方法は最後に簡単に触れているだけで、詳しくは著者の別の本『コグトレ みる・きく・想像するための認知機能強化トレーニング』を参照せよということらしい。

著者は、こうしたトレーニングによって「犯罪者を納税者」に変え、「日本の国力」を上げることを目指していると書いている。

画一的な価値観に押し込めようとする上から目線

本書は2019年に発売され、ノンフィクション部門でベストセラーとなっている。「ケーキの切れない」というタイトルにインパクトがあるのも大きいと思うが(「非行少年」という死語ではないかと思われる言葉も)、中身を読んだら、やはりどうしても「問題のある人たちを自分たちが治してまともにさせてまっとうに働く市民として納税してもらう」というような上から目線な感じがして、そこが世の「大人」たちに支持されているのかなと思った。

読者を「納得」させるために物事を単純化し、画一的な「障害に走る少年像」を作り上げ、徹底的に単純な「解決策」を示すことで、ベストセラーになったのかもしれない。最終章に記されている、凶悪犯罪者の脳に異常が認められたという事例報告は、医学的根拠として証明されているわけではないと読み取ったが、そういうところも単純化し過ぎているように思える。

また、「少年たちの顔が見えない」ような記述になっているところも怖い。著者が経験した事例の紹介においては、もちろんプライバシーに配慮して実在の人物の具体的な事実は書けないけれども、それにしても、いくつかの事例を交ぜたり一部を変えたりしてもっと具体的な人間として描き出すということは一般によく行われている。でも本書では、「認知力に問題があるために犯罪を犯して反省もできない少年たち」とひとくくりにされた「固まり」としての姿しか見えない。

「ケーキの切れない」ということに関しても、私は精神医学の専門知識も何も持ち合わせていないが、というよりだからこそなのかもしれないが、著者のように学力とか知能の問題というよりもまず、「みんなで1つのホールケーキを等分に分けて食べる」という「体験」をしたことがないのか?ということの方が気になった。そういう体験はしたことがあっても自分では等分に切れないということなのかもしれないが、そうした体験の蓄積があればできるのではないかという気もする。もしそうなら、そういう体験がなかったことも相当重要な、着目すべきポイントだと思う。

もちろん、働く上でどうしても理解力などが不足してしまい、「通常」の職場環境では「通常」に仕事をすることができない人も確かに存在するだろう。しかし、そういう人たちを「通常」に変えていきましょう、と著者は主張しているのだと思うが、ある程度「訓練」で「改善」が見込めたとしても、そもそもいろいろな特性を持った人たちが、それぞれの特性を生かして生きていけるようにする社会を「全員で」作っていくのがいいのではないだろうか?「特性を生かして」というのも実はまだ「通常」の中にすべてを押し込もうとする姿勢かもしれない。なんらかの形で働くのもよし、でも働かない、働けない場合もあるし、各自がなんらかの喜びを見いだして生きていけるといいと思う。

再犯防止のプログラムが必要で、日本では特にそうしたものがきちんと実施されていないということは以前から問題になっているし、その対策が必要なことは明らかなのだが・・・。

著者が「学校教育、学校での支援」も掲げていることは、もちろん発達障害や知的障害や知的障害とは判断されなくても学習についていく「土台」に問題がある子どもたちに早期の段階で気付き、支援していくことは必要だけれども、本書で「少年院にいる子どもも、そうではない子どもでも学校にいる段階からトレーニングが必要」と指摘している点が、なんだかそうした「困難」を抱える子どもたちを「犯罪予備軍」として見ているような印象を受けてしまわなくもない。

著者が「社会面(対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決力など)の支援も学校教育で必要」と述べていることにはおおむね同意する。ブレイディみかこ氏も著書『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で、イギリスの家庭で「感情表現」などについて学べない子どもたちがいて、保育園でイラストを使ってそれを教えたり、学校でも「エンパシー(共感)」などを学ぶ授業が行われていたりすると書いていた。そのために演劇が取り入れられることもあるそうだ。

しかし、本書の著者は、社会で生きていく上で欠かせないこうした人間関係を築くための力そのものについてはこれ以上深堀りしていない。認知力さえ高めれば、人間関係もうまくいくという認識なのだろうか?

このような違和感や気持ち悪さを覚えて本書の感想を検索したところ、下記のページを見つけた。書き手についての情報が得られないのだが、私としては下記の記述にうなずいた。

▼引用元記事

▼上記記事からの引用

著者のように、個人の機能を測り、その機能そのものに焦点をあて、障害としてラベリングしている点がまず現在の国際基準から外れているのです。障害を個人の機能の問題として捉えることは、障害にまつわる問題全体を矮小化することに他ならず、さらに、その解決を障害を抱える個人の機能の改善にのみ求めることは、傍観者の立場からの不適切な介入であると言わざるを得ません。
また、著者は、「 障害者は傷つきやすい存在で」あり、「 大切に守ってあげなければすぐに心が折れてしまいそう」(p.114 )で、障害者は「そももそも弱い存在である」(p.119)と述べます。これらは、非常に不適切な記述です。
中村(2011)が、「障害児・者がかわいそうな存在として意識されてしまうと、かわいそうな役割を果たす人としてかかわろうとする人から期待されるように なり、障害児・者は常に援助しなければならない人というステレオタイプな思い込み、役割期待ができてしまうことになる」と述べるように、上記のように障碍者を「傷つきやすい」「弱い存在」とする記述は、障害者をステレオタイプの枠の中に閉じ込め、障害の理解を妨げる障壁となります。
まず、納税が「社会の豊かさ」に繋がるのかという議論はさておき、相模原の障害者殺傷事件のようなできごとの後で、すなわち、「障害者はいらない」 「税金の無駄」 *1というような認識が形成され、あのような事件までが起こった後でなお、「犯罪者(障害者)を納税者に変えて社会を豊かにすること」という主張がなされることは看過できません。このような主張が孕むその危険性について、我々はしっかり認識すべきです。また、納税という形で社会に貢献できない人々に対しても、無用のプレッシャーを与えることに繋がります。

完全に「人ごと」とは思えない

ここまで、私もある意味では著者と同じように「こうした人たちと自分は違う」というような姿勢で書いてしまっているかもしれないが、自分がまったく関係ないとは実は思っていない。

「人の感情がわからない」とか「感情表現がしっかりできない」とか「柔軟性が低い」(予定の急な変更に弱いなど)とか「運動機能が低い」(左右の手足で違う動きをすることが難しい、ボールを投げても目の前に落ちるだけで遠くに投げられない、慣れているはずの家の中で壁などにぶつかる、など)とかの問題は子どものころから感じていた。

ただ、私はたまたま本を読むのが好きで、書くことでなら言葉で思考を表現できたし、言葉で周囲の状況や自分の行動や感情を整理、分析することもできた。「変な」癖を指摘してくれる家族や友人がいて、周囲との違いに気付くことができ、生活する上で困難を生じる癖を意識的に少しずつでも自分で変えていくことができた。これはつまり、本書でも指摘されていて一般にも言われているように「認知療法」にはある程度の(言葉を使った)思考力などが必要だが、それに近い方法で困難さをなんとか補ってきた(が、「完全解消」のような状態では全然ない)ということなのだろう。

運動についても、スポーツは全滅だったが、(体の)柔軟性は多少あってダンスを習い、それも下手だけれども、少しは体の動かし方が身に付いた(が、今でも育った家で角などに体をぶつけて痛い思いをすることがある)。それに、誕生日などには家庭やその他の場所でケーキを囲んで共に仲よく食べるという環境にいた(が、もちろん、それは誰もが経験すべき絶対的な「善」だと言いたいわけではない)。そうしたちょっとした偶然の違いで、私はなんとか平和に生きている。

でも、ちょっとした違いで、私ももっとずっと困難な人生を送ることになり得たかもしれない。また、これからだって何かの拍子にそうなるかもしれない。だから、ある意味、誰もが何かの点でどこかの「境界」にいるのかもしれないとも思っている。

ふとしたボタンの掛け違い、バランスの崩れなどから、どう転ぶかは変わってくる。だから、困難さの原因とそれを和らげる方法を、本人と周囲の人々とで一緒に模索していくことは必要なのではないかと思う。

と同時に、それが必ずしも「普通」「健常者」に近づけるように「矯正」していくことではない、とも考えている。そんなことは無理だし、無理を強いることできっと別の問題が生じる。「障害」があろうがなかろうが、変えていくことは変えていき、そのままでいけることはそのままでいい。そうした柔軟性も誰もが持ち合わせているわけではないから、ゆっくり解きほぐしていくことから始めていく。

たぶん、それこそそうしたことをきちんと行えるプログラムの設計や実施に「税金」を投じるべきだろうし、社会の私たちの意識としても、「こういう人はこういうふうに変わらなければならない」と決め付けて強制するのではなく、一人ずつと、一つずつ、向き合っていくことが重要だ。

そうはいっても「更生教育」の現場でそんな金銭的、時間的、精神的余裕はないという事情もあるとは思うが・・・。というループにめげずに、考え続けていくことが必要なのではないだろうか。


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