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『さくっと近代俳人入門 正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子 編』青木亮人著:「写生」型の俳句を確立した俳人に親しみが湧く本

『ハイクライフマガジン「100年俳句計画」』で連載中の「近代俳句史超入門」の一部を書籍化したもの。

大学で俳句を教える「青木先生」と、その教え子の大学生「俳子さん」による(少し寒いジョーク交じりの?)会話調で書かれていて、初心者も気軽に読める小冊子だ。

俳句界に革命を起こし、近代俳句の確立に尽力した俳人、正岡子規と、その2人の弟子である河東碧梧桐と高浜虚子の性格や生涯、俳句を紹介している。

以下のような興味深いことが語られている。

3人とも当時はやっていた西洋近代小説の影響を受けて小説家になりたかったこと。

当時幅を利かせていた、ひねりにひねった俳句をよしとせずに、情景から気付きや驚きを切り取って詠む「写生」の俳句を、新しいよい作風として打ち出したこと。

子規は、病気を患った6年間という短い間、しかも常に体の痛みに苦しみながら、俳句の世界に挑戦状を突き付け続けたこと。

西洋絵画の「印象派」から「印象」という言葉を借りて、子規が弟子の俳句をほめたこと。

虚子が『ホトトギス』誌上でたぐいまれな選句の能力を発揮し、積極的に一般の人向けの句会を開き、高学歴で文化的な主婦層や、帝大生などにアプローチして、俳人の発掘を進めたこと。

虚子の活躍は、俳句で生計を立てるためにビジネスの才を発揮した面もあったこと。

虚子は弱っていた夏目漱石に小説の執筆を勧めて、『ホトトギス』に『吾輩は猫である』の連載を掲載した。すると雑誌は飛ぶように売れたが、その後漱石が朝日新聞社に入社して連載が新聞に移ると、虚子らが書いた小説の掲載だけでは『ホトトギス』の売上が落ち込んだ。そこで虚子は小説家への道を今度こそ諦めて、雑誌を俳句専門に戻し、結果的に俳句界を盛り上げることになったこと。

碧梧桐は子規の「写生」を突き詰めて「無季」「自由律」への流れをつくったが、「写生」スタイルを急進的に追求したために自己満足な句に陥り、共感や理解を得られずに、そのスタイルが衰退して俳人として廃業し敗北したこと。

などなど。

「写生」スタイルの俳句が実は近代以降(19世紀後半~)につくられたものだったことなど、初心者の私は全然知らない内容がわかりやすく書いてあって、面白かった。


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