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映画『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』フランソワ・オゾン監督・脚本

『8人の女たち』などで知られるフランソワ・オゾン監督が、現在フランスで裁判中の「プレナ神父事件」の実話を映画化。

ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)、セザール賞でスワン・アルローが助演男優賞を受賞。

告発から告訴へ

30年前に通っていた教会の神父から性的虐待(性犯罪)を受け、現在は銀行員として働き、教会関係の学校で教師を務める妻との間に5人の子どもがいて、裕福な生活を送る男性が、そのときの神父が今も聖職者として子どもたちと接していることを知り、告発を決意する。

教会内部での懲罰と反省を働き掛けるが対応してもらえず、刑事事件として告訴することに。自身の被害は時効を過ぎているため、時効前の被害者の証言を集め始める。その過程で、多くの被害者たちが今も深く傷つき苦しんでいることが明らかになっていく。

何をしても神に許される?

世界各地で神父による性犯罪が明るみに出て、ローマ教皇も声明を出すなどして、カトリック界のみならず多くの人々を震撼させた事件の一端を描くが、今も起こっている問題だろう。

脚本も担当した監督の意図かどうかはわからないが、本作で印象に残ることの一つは、キリスト教における「許し」だ。

告発されたプレナ神父はあっさりと「罪」を認める。昔からそうだったそうだ。でもそれは、告解すれば神に許されて天国に行けるからと考えているからではないか。

この映画を見る前から思っていたが、特にカトリックがそうなのかもしれないが、罪を犯すのは仕方がない、認めて許しを請えば神が許してくださる、という教えは、「何をしたって、神に謝ればいい、そうすれば許される」という思考につながる危険性があるのではないか。

だが、加害者が神に許されて天国に行けるのがなんだというのだろうか、被害者は神ではなく、痛みや苦しみを感じる人間だというのに。

本作で、被害を告白した人たちが言う、「被害に遭ったのは私だ」と。フランス語の原題「Grâce à Dieu」は「神のおかげで」という意味で、「幸運にも」と同義で使われる。この表現が、映画の最後で象徴的に登場する。

なんの象徴かというと、自分たち教会の権威と特権と「神」しか見えていない、「聖職者」たちの姿をあらわにするのだ。自分たちの周りにいる人間たちは、彼らには見えていない、もしくは「信者」は自分たちの思いどおりになる、どうでもいい存在だ。

犯罪行為は到底許されないし、そもそも、生きている人間の苦しみや悲しみや怒りが届かないような者が、神と信者の仲介者になれるはずがない。

もちろん、『レ・ミゼラブル』に出てくる神父のような高潔者も、現実の世界にまったくいないわけでもないだろうが、神の名の下に絶大な権力を握る者を多数設ける構造や、人間は弱い者で懺悔すれば許されるという構造には、不信感を覚える。

被害者の献身的な妻たち

オゾン監督は人間という存在を根本的には肯定的に捉えているのかもしれない。この深刻なテーマを希望をもって伝えられるのは、そのためだろう。

そうすることで万人が見やすい映画にしているのだと思うし、それは意義のあることだ。しかし、告発した男性たちの妻たちがほぼ一様に夫に協力的で、強固な関係にひびが入らない、というのも、題材とした事件の事実に基づく設定なのだろうか。

もしそうなら素晴らしいのだが、どこか出来過ぎた感もある。もっとも、妻たちの一人に関しては、協力的な理由が明かされてもいるのだが。破局したカップルも1組出てくるが、彼らは結婚はしておらず、ちゃんと協力的でないからまっとうな家庭が築けない、と言っているように見えなくもない。確かにそうなのかもしれないが、男性視点の画一的な「理想」の女性像が投影されているようにも感じる。

こんなふに思ってしまうのは、見る側に「被害者の家族にとって受け入れがたい話のはずだ」という思い込み、偏見があるせいかもしれない。自分なら大切な人からのどんな告白も受け止めようと思うが、日本の映画なら、妻や子どもに伝えるまでの過程がもっと丁寧に描かれるだろうという気がする。

本作では、妻はもちろん、ティーンエージャーや小学生くらいの子たちに伝えていて、伝えられた方もきちんとそれを受け入れているのがよいというか、うらやましいというか。被害をなくすのがいちばんだが、こうした家族や仲間との信頼を持てる社会であるといい。

ただ、本作では、告発後も理解を示さない親などの姿も描かれている。きっと、親しい人たちといえどすべての人に理解してもらうのは難しい。それでも、その中の何人かでもわかって寄り添ってくれたら、「救われる」。

現実では、告発した側が嫌がらせを受ける事例もあったのだろうと推測されるが、その部分はあえて描いていないのだろう。言えずに苦しんでいる人に、告発はできなくても身近な信頼できる人に打ち明けてほんの少しでも穏やかになれるようにとの意図があったのかもしれない。フィクションという形ならではの「操作」なのかもしれない。

原題:Grâce à Dieu
2019年フランス、2時間17分


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