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午前3時

午前3時だった。
ソワソワして寝付けないまま朝のような夜、夜のような朝。
カーテンの隙間から外の明るさを盗み見た。
冷気が起きて手先から背筋まで駆け上がり、鳥肌が立った。
寒いというより涼しいが似合う時間帯。
頭の中はもう意志を作り出せていないのに波動のない水面のように大人しく、あたりの静けさと自然に調和した。
開けた空間を体感したくて、駆られるままに外に出た。
清涼感の漂う時間帯、雨の気配はないのに朝露が似合う時間帯。
歩いて帰って来れないくらい遠くまでなんて行かないくせに、心持ちはムキになって家出する気分だった。
一歩一歩足を進めるうちに、焦る心に比例して心拍数も上がっていった。
顔なんて上げられなくて、下を見て急いで歩いた。
自分のつま先が動くのが降りこみたいだと、下を見てもっと急いで歩いた。
感覚が細やかに研ぎ澄まされていった。
歩けば歩くほどに駆け足になっていった私は人けのない道の上で、外を飛び出す前よりももっと狭くもっと暗いトンネルの中に入っていくようだった。
別に帰る必要なんてない、そもそも帰るってなんなんだろう、一つ一つの概念が歪んで私を酷く揺さぶった。
次の瞬間、つまづきそうになるくらい高い音で杖が地面を押す音が響いた。
その瞬間、顔を上げた。
次の瞬間、「こんにちは。」
その瞬間、「こんにちは。」
一瞬の出来事だった。ギプスを足に巻いたおばあさんが杖をついて一歩一歩ゆっくり足を運んですぎていった。
あっという間に遠くに進んで小さくなっていく背中と、小さくなっていく杖の音。
「こんにちは。」
いただいた言葉が自分の中で反芻されていくうちに、言葉が解れ、おばあさんの優しい気持ちから取りはずれ、自分の言葉に翻訳された時、私はその時自分が一番欲しい的確なやさしさに包まれた。
「こんにちは。」
私がやさしさを感じた言葉だ。
眠れなかった夜、起きることのない朝、自分という境界線が滲んでしまった時に、おばあさんが私を認識できるということによって得られた私が確かにそこにいたという証拠。
具体的に肯定する訳でも否定する訳でもない漠然とした言葉は、自分自身が多角的に見えなくなってしまった私に優しい言葉だった。
私を知らない人からの言葉は、何をしたからという私に付帯するラベルを知らないという前提があり、これは何一つラベルがない私でも私が消える訳じゃない、誰かによって認識できる存在であると強く信じることのできる根拠になってくれた。
その挨拶はアラームのようだった。
踵を返し、一歩を踏み出す度に、駆け上がっていく足に従って上がっていく心拍数は快活な好奇心のせいだった。
挨拶という幅のある言葉は私がここにいるというベースを保証し、また自分自身のニュアンスで自由自在に自分の言葉に翻訳しその時自分が一番欲しい言葉を躊躇せず引き出すきっかけを与えてくれる万能な言葉だと思う。


改めまして、「こんにちは。」
最後まで読んでくださってありがとうございました。

#やさしさを感じた言葉


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