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富嶽百景


私は、ふたりの姿をレンズから追放して、
ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、
富士山、さようなら、お世話になりました。
パチリ。

『富嶽百景』太宰治

つい先日、去年の夏に出かけた時の写真が
送られてきた。

雲ひとつない空の下。

この写真を見るまでは、あの日の空のことを
思い出すことができなかった。

とっても楽しくて、とにかく笑っていたし
満足をしていたことは間違い無いのに
断片的にしか思い出せないことが寂しく感じる。

写真はその瞬間を切り取って残してくれる。
曖昧で変わりやすい人の記憶をきちんと
切りとって「時間を止めてくれる」ものだと思う。

『富嶽百景』のラストシーンで、主人公は
写真撮影を頼まれる。そして、二人の姿ではなく
「富士山だけ」を写真に残す。

写真を撮った主人公よりも、写真を依頼した
2人は現像をみたとき、何を思うんだろうか。

個人的に思うことは、富士山だけの写真を見て
その時の笑顔も隣にいる人への想いも
曖昧な記憶の中で、幸せだったと思う方がいい。

あの富士山、見れてよかったね。とか
あの日、こんなことがあったよね。とか
記憶を辿るひとつのアイテムになったらいい。

この写真がもしスマホで撮られていたら
なぜ、富士山だけを撮るんだ!とすぐにでも
抗議するかもしれないが、現像するという
今は昔の作業って意外と価値があるかもしれない。

既読になるLINEという連絡手段よりも
見たのか見てないのかわからないメールの方が
来なかった時の衝撃は少ないし
TwitterとかInstagramを見るよりも
日記にしたためた想いの方がなんか大事にしたい。

変わっていく時代の中で、失われるものにも
あった本質的な魅力はどんな形でもいいから
残して行けたらいいのにと思う。

便利になるから、心に残るものとか
自分の記憶だけに残るものって大切なんだと思う。

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