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檻の中  恋愛小説です。

In a cage

菅原博文
エレベーターのドアが開き、同い年ほどの若い女が二人出てきた。二人は淡灰色の廊下にヒールの音を軽く響かせて歩く。心持ち背の高い女が振り向き、ここなの、と言いスチールのドアの前で立ち止まる。財布から鍵を取出し、音をたてて錠を開ける。
入って、少し散らかってるけど、と言い、部屋に上がる。籐製のシェードに覆われた白熱灯を点けて、照度を落とす。
「なるほど、ここがあなたの住処なのね」
もう一人が部屋を見回しながら言う。彼女は7分丈の毛織のコートを脱ぐ。ルイズ・ブルックスばりに、短く断髪している。
「そうよ。さあ、お召物を預かりますわ。すぐ部屋を暖めるから」
 背の高い方の女はコートをクローゼットに納め、ヒーターのスイッチを入れる。
「ちょっと待ってて。コンタクトをはずしてくるわ」
彼女は洗面室に入って鏡の前に立ち、キャビネットをあける。中からプラスチックのケースを取出し、二つの蓋を外す。鏡を見つめて驚いたように目を見開き、両方の目から慎重に異物を取り除く。そしてウエリントン型の眼鏡を取出し、そっと両耳の上に滑り込ませる。
彼女は度の強そうなレンズを通して、もう一つの自分の顔を暫く眺める。が、やがて飽き飽きしたという風に目をそらすと、ケースを片付けて友人に尋ねる。
「飲み物は何がいい? ビールか赤ワイン、それかウォッカベースで何か作れるわ」
「私はビールがいいな」
 彼女が飲み物の用意をしていると、このCDかけていいかな、と大声で尋ねる声が聞こえてくる。ボブカットの女は、棚に並べられたCDを丹念に調べている。ジャズやレゲエのアルバムの中から、スタン・ゲッツの作品を見付けたのだ。
「いいわよ」
部屋の主人はそちらを見もせず答える。ボブカットの女はディスクを乗せ、スタートのスイッチを押す。やがてボサノバのリズムが流れだす。
ボブカットの女は言う。
「ゲッツって、メッセージがすごく判りやすい人だと思う。楽しくやろうぜって、最初から最後まで、それしか言ってない。俺達大人だけど、こんなに楽しんでるんだぜって。日本のキリギリスは冬の寒さで死んゃうけど、中南米では一年中夏みたいなもんだから、キリギリスはいつまでも楽しく歌ってましたとさ。そんな感じね」
「そうね」
部屋の主人は簡単に答える。
「さあ、アルコールが到着したわよ」
それからソファーに浅く腰掛け、自分のグラスを持ちあげて言った。
「アナに乾杯」
「アナ」は、その日二人が観てきたスペイン映画のヒロインだった。
「乾杯」
「彼女、可愛いかったわ」
「そうね、確かに私もアナは好きになったわ。純粋で、魅力的ね。でも私としてはあの少し意地悪なお姉さん、彼女も捨てがたいの。彼女が可愛らしい妹に嫉妬してつい 苛めちゃう気持ち、わかるんだな。私はどちらかというと彼女に似ているの。映画や小説の主人公はいざ知らず、普通の人間なら意地の悪い部分って持っているもの。子供の頃の自分が、アナほど無邪気だったとは思えないわ。
 そして映画では普通の人間は脇役になっちゃうのね。アナみたいに、少し間の抜けた子が主役になるの」
「あなたらしい見方ね。でも私が一番好きだったのは、あのお父さんよ。
 彼が二人を連れて林に茸を採りに行く場面があったじゃない? 体を屈めて、低い声で食べられる茸と毒のある茸の見分け方を教えているところ。これぞ娘と父親の関係っていう感じで、よかったなぁ。あれ位の年頃の女の子にとって、父親に何か世の中のことを教えて貰うことって特別な事だと思わない? それもまだ朝靄の消えない林の中で、菌糸類のことを教えて貰うんですもの…」
彼女は少し腰を浮かせ、深々とソファーに身を沈める。
「随分穿った見方をするのね。でも、まあ映像も綺麗だったし、良かったわね。私は途中から少し眠くなっちゃったけど」
「確かにね」
二人はクスクスと笑った。
 少しの沈黙の後、ボブカットの女は灰色のカーテンをバックに立っている植木の方を向いて、気になっていたことを尋ねる。
「あの木、なんていう名前?」
植木は、籐の篭に包まれた鉢の上に直立している。1m半程の高さで幹も枝も細く、やはり細々とした葉柄の先に、若草色を地に白い斑点のついた葉が下がっている。それは、黄昏の草原に立ち尽くしたキリンの全身から、神経組織がそのまま抜け出して、葉を繁らせたような姿だった。
「ベンジャミン。ゴムの木の一種。向かいの部屋の女の人に貰ったの。むこうは日当たりが悪いからって。水もそうだけど、冬は温度が低いと駄目なの」
彼女は言った。
「でも最近お陽様にあててないな。朝はカーテンを引きっぱなしで出ちゃうし。枯れちゃったらどうしよう? 私あれがとても好きなの」
彼女は立ち上がり、窓際まで歩いて植木を眺める。遠くからだと気付かないが、近くで見ると、枝や葉の表面から水分と光沢が失われ、少し縮んだように見える。彼女は、まるでそうすれば植物の日光不足が解消するとでもいうように、一枚の垂れ下った葉を下から指で軽く持ちあげるようにする。
 CDが終わる。ボブカットの女は、枯れやしないわと言い、次のディスクを入れる。再びスタートのスイッチ。
「枯れやしないわ。あなたに愛情があればね」
そうかしら、と言って彼女は葉の裏から指をはなす。
それから話題は、友人の恋愛関係へと移っていく。
 一時間程経つとビールの缶が幾つか空いた。部屋の主人は脚を組んで背もたれに寄り掛かり、飲み物のグラスを持っている。ボブカットの女は腕時計を見る。
「私、帰らなきゃ。送ってくれなくていいわ。道は判るから」
「そう」
部屋の主人は少し間をおいて立ち上がり、衣装入からコートを取り出す。ボブカットの女はコートを受け取りしな
「ところであなた、彼とはどうなってるの」
と尋ねる。
「彼って?」
しかし彼女は、ちょっと肩を竦めて相手の顔を眺めた。部屋の主人は、仕方ないという風に言う。
「別に、どうにも。あの人、今は故郷に帰っているわ」
「それで、どんな感じ?」
「そうね、相変わらず音楽狂よ。それだけ」
「そう」
彼女はそう言うと相手の肩を軽くぽんぽんと二つ叩き、玄関に向かって歩きだす。
「じゃあ私、今日は帰る。電話するわ」
「ええ」
部屋の主人は友人を見送る。
 彼女はドアの新聞差しから朝刊を取り、冷蔵庫から氷を取り出してソファーに戻る。新しく飲み物を作り、新聞を海外欄から読み始めたが、十分程でふいに頭を上げ、新聞を片付ける。帰ってきた時に郵便受けから取り出したぶ厚い手紙を、ハンドバックに入れたままだったのを思い出したのだ。彼女は手紙を取出し表側を見た。宛名は右肩が多少あがる癖があるが、丁寧な字で書かれている。
 彼女は手紙を裏返し差出し人の名前を見る。両目がひとつ瞬きをし、唇が微笑んだ。暫らく差出人の名前を眺めていたが、それを右の掌に乗せ、ふわりと放り上げた。手紙は宙で半回転し、裏側を見せて彼女の手に落ちる。彼女はその動作を何度か繰り返した後、大切そうにそれをテーブルの上に置いた。
 それから彼女は週刊の女性誌をマガジンラックから取り出した。ほっそりとしたモデル達のグラビアのページをパラパラとめくり、柔らかい椅子にもたれ掛かる。女流作家のエッセイに目を留め、読み始める。煙草を箱から一本抜き唇に挟んだまま読み進んだが、途中で火をつける。またページをめくって、巻末の占いの自分の星座の欄を読み始める。が、それも途中でやめて、雑誌をテーブルの上に投げ出す。肘掛を指でとんとんと叩きながら白い壁を見つめていたが、やおら立ち上がり、洗面室で服を脱ぐ。シャワーを浴びて部屋着に着替え、ソファーに戻り手紙の封を切る。彼女は脚を組んで、手紙を読み始めた。
前 略 
 元気かい?今年はシベリア寒気団のやつ、全く好調じゃないか。ニュースによると、モスクワでは零下30度だそうだぜ。ロシア人は、なんでわざわざそんな土地に寄り集まって住んでいるんだろう?
 僕自身は、割と伝統的な日本的季節感の持ち主で、寒い季節もそれなりに楽しめる。寒い朝に窓を開けると、気持ちが引き締まる。寒さに耐えることも、そんなに嫌いじゃない。冬にはいろんなことを大切にしているような気がする。
 だけどその気持ち良さもせいぜい2月までで、今年みたいに雛祭りを過ぎてからまで大雪に降られたんじゃ、いい加減嫌になってしまう。今じゃこのささやかな島国にいつまでも居座りを決め込んでいるシベリア寒気団の野郎に、ヘッドロックでもかけて絞め殺してやりたい位だ。
 この手紙を書き始めるにあたって、君に断っておきたい事が二つある。一つはこの手紙がやたら長くなるだろうということ。もう一つは僕は最近自分に起こった変化について書くだろうということ。(それは君と深い関係がある。)
 君はきっとうんざりしてしまって、最後まで読んでくれないかもしれないな。或いはその方がいいのかも知れない。とにかく飽きるまでは付き合ってくれ。
 一昨日友達に誘われてスポーツクラブに行ってきたところから話を始めようと思う。ラケットボールやジムなんかのある所だ。
 そこでは準備体操として簡単なエアロビクスをやるんだが、周囲の人達の精神衛生を考えるのなら、あれは成年男子は遠慮すべきだと思う。それで僕は主に女の子の脚ばかりみていた。若い娘がたくさんいた。綺麗な娘も、そうでない娘も。
 その後軽いランニングとジム、アスレチックを片付けて、二人で泳ぎにいった。着替えてプールサイドに入ると、塩素の匂いが微かにした。それが僕の記憶をくすぐった。音楽もそうだけど、匂いが昔の懐かしい情景を思い出させることってあるだろ? 
 もっと正確にいうと、音楽や匂いが記憶の中である情景と結びついていて、その時の気分、雰囲気といったものを甦らせる。そしてその情景は昔のある季節に持っていた特別な感情と結びついている。僕達はそういう過去の生活感情を愛惜する。もう戻ってこないものだから。
 児童会の催物かなにかで子供達が沢山きてたな。僕は平泳ぎで子供達の間をかいくぐるようにして200m程泳ぐと、プールサイドの寝椅子にもたれ掛かった。そして目を閉じ、高校時代の最初の夏休みを思い出した。僕にとって、塩素の匂いと結びついた思い出。
 僕は高校一年の夏休みのほとんどをプールと英語の宿題で過ごした。その宿題というのは量的にも質的にも高校一年生にやらせるものとしては苛酷なものだった。しかも僕は品詞や時制という概念が解っていなかったので余計てまどった。
 僕は当時受験で成功できるかどうかに全ての関心を向けていたから、多分その宿題が、世の中に通じるための一つのハードルであるかのように感じていたんだと思う。
 更衣室を出ると、シャワーの栓を開けて水を浴びる。そのまま進んで消毒液をくぐる。陽はもう高くなっているから、プールサイドのコンクリートは熱くなっている。プールで一泳ぎした後は、バスタオルをコンクリートの上に敷いて仰向けになる。
 君は自分の真上の空を眺める機会なんて、そうめったにないってことに気付いたことがある? 僕等はたまには自分の頭の上がどうなっているか、確認するべきだと思うな。
 真上の空は昼時は太陽の光で銀色に近い。僕は魂だけこの不自由な体から抜け出して、白く輝く高層圏の雲の間を散歩できたら、どんな気持ちがするだろうかと想像する。そこでは風が強く吹いているだろう。僕は息もできないにちがいない。
 或いは二等辺三角形のジェット機のように、希薄な大気の中をどこまでも一直線に疾走できたら。夕暮時には地上の家が恋しくなるかも知れない。空は一人でいるにはあまりに広すぎる。だが一度その孤独の意味を知ったなら、二度と地上には帰れないだろう。そんな気がする。
 そうしているうちに空は太陽の強い日差しに翳って、だんだん黒く見えてくる。恐らく網膜が陽に焼かれて、空の残像が黒い影になるのだろう。寝返りをうつと青いペンキが剥げかかったフェンスの向うに、夏の雑草が勢いよく繁っているのが見える。蝉達が頻りに鳴いているのに気付く。
 僕が毎日のように高校のプールに通っていたのには理由がある。僕は夏休み後にある水泳大会のバタフライの選手だった。僕はバタフライなんか泳げなかったんだが、ホームルームで選手の選考をしている時によそごとを考えていたのが災いした。知らない間に僕は50mバタフライのクラス代表になっていた。
 初めてバタフライを泳ぐ者にとっては、周囲に見ている人がいるかどうかという事が重要な問題になる。人に見られたくない場面というのはあるからね。幸い僕が初めて練習に行った時はまだ午前中で、人が来ていなかった。僕は出鱈目なフォームとタイミングで、それでも50mプールの半ばまで進んだ。
 ところがそれを見物していた奴がいた。僕が初めてのバタフライを終えて立ち上がると、どこからか拍手の音が聞こえてきた。校舎の窓から二人の生徒がこっちを眺めてにやにやしている。拍手を終えると口に手をあてて「よう、頑張れよ」とかなんとか言いやがる。全く気の利いた観客だったよ。
 僕は泳ぎ方のコツが解ってからは、友達を誘って練習した。彼の種目は100m自由形だった。
 1979年の夏は晴れた、暑い日が多かったんじゃないだろうか。それとも熱したコンクリートと太陽の記憶が、僕にそういう印象を与えているんだろうか。
 時々友達が集まると、僕等は水泳部の部室からボールを無断借用して水球の真似事をやった。部室には鍵がかかっていたので窓から侵入したんだが、そのためには塀の上の錆びた有刺鉄線を越えなければならなかった。僕等の水球はどちらかというとアメリカンフットボールに近かった。三、四人がボールを奪い合って揉みあい誰かが水の抵抗と戦いながらのろのろと独走し、あるいは長いパスで一気に距離を稼ぐか、という調子で。その頃はドリブルの仕方も両手の反則も知らなかったが、そんなものは必要なかった。
 帰りは校舎の屋上に上りぼうっとして時間を過ごす。冷えた肌に真夏の陽と木綿のシャツが温かく感じられる。遠くのポプラの木を眺めると上空は風が強いらしく、高い梢はスローモーションのように大きくしなっている。風に吹かれて葉が激しく騒めき、白い葉裏をのぞかせている。
 結局僕は夏休み後の水泳大会、バタフライ一年生の部で優勝したんだぜ。多分それは全く小さな、とるにたらない成果だろう。比較にもならないが、世の中には高校時代に日本記録を塗り替える人だっている。
 だが不思議なことに、僕はこの夏の事を思い出すと誇らしい気持ちになる。どのようなことに自信を見いだすかという事は、人それぞれ違っているのだろう。
 温水プールの塩素の匂いは僕にそういう事を思いださせた。だけどあのプールも今は緑色に水が淀み、粉雪がその上に降り掛かっているだろう。僕は浴場で体を流した後喫茶室でビールを飲み、友達と別れて家に帰った。

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