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「負担」とともに生きられる社会をめざして LITALICO研究所OPEN LAB#8 スカラーシップ生レポート

社会的マイノリティに関する「知」の共有と深化を目的とした、未来構想プログラム「LITALICO研究所OPEN LAB」

2月12日に第8回講義 「生きる」を誰が決めるのか – 生命倫理と医療・経済 を開催しました。

以下では、同講義の「スカラーシップ生」によるレポートを掲載します。

OPEN LABスカラーシップ生とは
・障害や病気、経済的な困難さがあり、参加費のお支払いが難しい方
・本講義に対する学びの意欲が高く、明確な目的を持って参加できる方
を対象にした、公募・選抜制での参加枠による受講生です。スカラーシップ生は、同講義に無料で参加(遠方の場合は交通費を一定額まで支援)、講義終了後に「受講レポート」を執筆します。

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「負担」とともに生きられる社会をめざして

1. 手練手管を尽くして生きていく

今回の講義でとりわけ印象に残ったことは、「手練手管を尽くして生きていく」「足りないことはない」という立岩さんの考え方でした。生まれたからには生きていくしかない。そのための資源は多くないが足りないこともない。実際やってこれた人たちがいて、あまり知られていないがいろいろな手法がある。それらを活かして、大変だけれどもなんとか生きていく。

わたしの個人的な経験からこの考え方に興味を引かれ、さらに掘り下げて考えてみたいと思いました。わたしの母は、ひとり親で精神障害をもちながらも、懸命にわたしを育ててくれました。彼女は手練手管を尽くして生きていました。離別した夫に手伝いを頼んだり、親戚に援助を頼んだり、新たに見つけた恋人の近くに移り住んで支援を求めたり。

そしてわたしもなんとか生きています。いわゆる貧困世帯で育ちましたが、給付型奨学金や各種の減免制度などをフルに活用することで、綱渡りで経済的な安定を確保しながら学んできました。そしてこの度の講義にも、スカラーシップ生として参加することができました。この場をお借りして感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

2. 生きることに伴う「負担」

さて、手練手管を尽くして生きようとする限り、誤解を恐れずに言えば、何らかの「負担」や「迷惑」を周りの誰かにもたらすかもしれません。生きるための資源は、確かに足りないことはないのだろうけれど、ひとつの家族内でさえしばしば偏って存在しています。たとえ同じだけの資源をもっていても、資源を多く提供しなければならない人がいる一方で、ほとんど提供を免れる人もいます。そして、資源を提供する人は多かれ少なかれ「負担」を負うことになります。

個人的な経験になりますが、中学入学から高校卒業まで、わたしは母に対して精神的なケアを担ってきました。特に、高校3年の大学受験期、ワンルームを衝立で区切って2人で生活しながらケアをしていましたが、わたし自身大変な苦しさを感じていました。母もきっと同じように苦しかったと思います。

わたしが担った精神的ケアは、わたしと母の間だけに閉じていて、その「負担」は家族外の人には見えません。「負担」を誰かに訴えたり、母のケアをやめることをわたしは選べませんでした。もしそうすれば、症状を悪化させ、最悪の場合自殺に追い込んでしまうかもしれないと考えていました。母が倒れてしまうと、私の生活や人生がより一層苦しくなるとも考えました。

このような経験から、わたしは「負担」をこれ以上抱えたいとは思えません。とはいえ、このような「負担」が生じるという理由で、障害や貧困などのニーズを抱える人々の生を決めることももちろんできません。さらにいえば、障害や貧困などを抱える人に限らず、「ふつう」の人(仮にそのような人がいると想定すれば)であっても、周りに何らかの「負担」をかけずには生きていけないものです。だから、わたしたちが生きることに伴う「負担」をどうしたらよいのか、わたしたちは考える必要があります。

わたしは、わたしたちが生きるための資源提供を一部の個人や家族に偏らせるのではなく、社会全体で共有できたらよいと考えています。そのような社会はいかに実現できるのでしょうか。例えば、これまで資源提供を免れてきた人も、何らかの形で新たに「負担」を抱えると想定できますが、どのように合意形成を進めることができるのでしょうか。

3. 「負担」をめぐる利害の調整

この問題を今回の講義を踏まえつつ掘り下げていくと、「負担」をめぐる利害関係に突き当たります。すなわち、講義で立岩さんが発言されたように、当事者の周りの家族や支援者、関係者がどういう人であり、どういう利害を持っているのかを考慮する必要があると考えます。講義で挙げられた例で言い変えれば、家族は当事者を最も気遣っているが、死んでもらえるとありがたいともまた思っている、ということであり、女性の中絶する権利がある一方で障害者の生まれる権利もある、ということです。

おそらく、「負担」を社会で共有するためには、地道な運動や交渉を通じて利害関係を調整しつつ、制度づくりを進める必要があるのだと思います。

講義では、そのいくつかの手法が紹介されていました。自ら事業所を立ち上げヘルパーを派遣することで、介護給付を自分の事業所で使えるようになる「さくらモデル」、病院と交渉しシステムをつくった壱岐島の事例などです。いずれも、個人から出発して地域や社会のシステムをつくるに至ったという点で大変興味深いです。

ここで参考までに、わたしの関心領域である貧困問題から、その手法を紹介したいと思います。実は、貧困の解消に関心をもつ一部の実践者や研究者たちは、興味深い手法で利害調整に取り組んできました。それが、2008年前後に登場した「子どもの貧困」という問題設定です。「子どもの貧困」への対策は、貧困に至る責任がない(とみなされる)子どもへの支援であり、さらに人的投資として高い効果を期待できるため、従来の貧困問題一般への対策と比較して非常に広い合意を得ることができるのです。「子どもの貧困」を前面に押し出し貧困への関心を喚起することによって、ゆくゆくは貧困問題一般の対策を進められると期待されました。この手法は、実際に「子どもの貧困対策大綱」の制定や施策の実行といった政治的成果を収めることができました。

4. わたしたちが生きるうえでの課題

とはいえ、これらの手法には課題が残されていると考えています。当事者や家族にケアや貧困の責任が帰され、その「負担」を迫られているからです。

直接的行為としてのケアが社会に開かれつつあるとしても、ケアをコーディネートする責任やその「負担」は、未だ当事者や家族に集中する傾向にあります。なぜ当事者や家族が、現在抱えている「負担」を社会で共有するための制度づくりを自ら果たさねばならないのでしょうか。素朴な気持ちを述べるなら、ケアの「負担」が家族に集中し、それに対する承認も再分配も十分になされない現在の社会において、ケアをコーディネートする責任からも解放されたいとわたし個人は思ってしまいます。

前掲の「子どもの貧困」という問題設定にしても、一定の成果を上げた反面、「子どもの貧困」を親や家族の責任とする議論を呼び、貧困に対する社会規範を変えるまでには至りませんでした。

これは利害調整という手法がはらむ課題というより、むしろその目的に内在する課題かもしれません。社会構造や規範を揺さぶることをめざせば、「負担」をめぐる利害関係の調整がより一段と難しくなるのだと思います。この周辺の論点はまだまだ整理の余地があるので、今後も学びを継続し、検討を深めていきたいです。

最後に、誰であっても「負担」をかけながら堂々と生きることができ、それでいて過重な「負担」に脅かされることのない社会をわたしは望みます。そして、それまで手練手管を尽くして生きていこうと思います。ありがとうございました。

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LITALICO研究所OPEN LAB#8 スカラーシップ生
亀山 裕樹(かめやま ゆうき 20代男性)

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プロフィール
・中学入学から高校卒業まで、精神障害をもつひとり親の母のケアを経験
・北海道大学大学院教育学院修士課程 2020年4月入学予定

★研究テーマ:ケア役割を担う子どもの貧困と複合的困難
修士課程での研究では、貧困のなかでケア役割を担う子どもがいかなる複合的困難を抱えるのか,その実態を明らかにしたいです。さらに、貧困に対処しようとするなかで結果的にケア役割を自ら引き受けてゆくといった複合的困難の形成過程を踏まえ、子どもが貧困とケア役割をどのように意味づけているのかを検討します。

従来、家事やきょうだいの世話といったケア役割を担う子どもの貧困は、〈子どもの貧困〉と〈ヤングケアラー〉という、ほとんど異なる2つの問題設定に分断されて語られてきました。しかし断片的な先行研究からは、子どもの貧困とケア役割が偏在し、複合的な困難を形成することが示唆されます。したがって、貧困とケア役割を抱える子どもの複合的困難を分析の中心に据え、体系的に整理する必要があると考えています。

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LITALICO研究所OPEN LAB


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第9回 それぞれの孤独を携えて、私とあなたが隣に「居る」こと

食事をする、仕事をする、恋をする、式をあげる…何かを「する」ことで得られる日常のささやかな喜び。

その裏側でそれぞれが抱える痛みと孤独。

「わかりあえる」という期待と「わかりあえない」という諦め。

決して重なりきらない別々の人生を生きる私たちが、それでも共に「居る」ということ。

LITALICO研究所OPEN LAB、シリーズ最後の講義です。

ゲスト
家入一真さん 株式会社CAMPFIRE 代表取締役CEO
尾角光美さん 一般社団法人リヴオン代表理事
東畑開人さん 十文字学園女子大学准教授

2020年3月24日(火) 19:30〜22:00

次回講義は、完全オンライン配信での実施となります。

チケット販売サイトPeatixよりチケットをお求めください。


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