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宣誓

「今言ったことウソ、なにもかもウソ。全部無しだからね!」
そういうふうに言ったら、どこまでが実際に無しになるのだろう?

例えば今晩誰かとしていた飲み会の約束、30分後に届く予定の宅配ピザの注文、明日の夜に予約したイタリアンレストランのディナー、これらは自分の一存では無しにはならない。
ちゃんと先方に連絡してキャンセルの了承を得なければ、相手に迷惑が掛かる上に信用も失う。
人との約束を破らない。当然の話だ。

では「近いうちにお店に伺います」とか「また何処其処(遠方の友人が住む地方都市など)に遊びに行きます」と言った社交辞令的な口約束はどうだろうか?
これも具体的な日時は決まってはいないが、相手があっての意思表示と言えるので、無しなら無しで一応相手にその旨を伝えておいた方が心にしこりを残さなくていい。
口約束はふんわりとしたと意思表明と言える。

それでは「いつか食べたい」とか「いつか〇〇に行ってみたい」と言ったSNSのコメント欄にありがちな言い回しはどうだろうか?
これに関してはその場に対象となる相手がいない、若しくは伝わらない状況で言う分には問題はないが、 ”食べに行きたい店” や ”行ってみたい場所” に該当する人間の目や耳に届くように言うのはナシだと思う。

文面や気持ちに嘘や間違いがなかったとしても、実行するつもりがない上っ面だけの思いを伝えられるのは、社交辞令と同等かそれ以上に嫌な気分になる。
それならなにも言われない方がよっぽどいい。
行動の伴わない ”お気持ち表明” ほど不愉快なものはないので、そういうのは心の中だけに収めておいてほしい。
頼んでもいないことをされるぐらい余計なお世話だと思う。

冒頭の話に戻るが、全部 ”ウソ” で ”ナシ” にしても問題がなく、誰にも迷惑を掛けないのは ”自分自身のこと” だけになる。
将来の目標、ダイエットの期限、推しの設定、そんなものは自分の一存でいくらでも勝手に変更できる。
自分の未来なんて気持ち一つでいくらでも切り開いていけるのだ。
その気に ”なり続けられれば” の話だが。

では、何となく常識的に慣例としてやるべきこと、なるべく形として意識に刷り込まれていることに関してはどうだろうか?
例えとして最も分かりやすい ”しきたり” に葬式が上げられる。
これは個人的な意見になるが、自分の葬式は一切行わないように遺言を書くつもりでいる。
この文章をそれとしてくれてもかまわない。

自分にとって葬式は遺族に対しての義理立て以外の何者でもないと思っている。
金もかかるので葬式が行われなければそれに越したことはない。
そのぐらい自分にとって葬式は ”無し” でいいものだ。
墓参りも同様でわざわざお墓の前までいかなくても 、”心の中でいつでも” いくらでも思い出して再会することができる。
葬式に出るぐらいなら、死ぬ前に顔を見てくればいい。
最後に”悔いのないように” 思いを伝えてくれば。
古くからの習わしだろうが何だろうが、物事に意味を持たせるのは ”自分自身” しかいないのだから。

「これまでいろんな人にお世話になってきましたけど、これからのことは全部 ”嘘” で ”無し” でお願いします!」
と、ここに声高らかに宣誓する。
人生が60分のドラマだとしたら、もう結末が出ている頃だ。
今から新しい何かに挑戦するつもりはないし、心を燃やす燃料も残っていない。
夢や希望に溢れた一つのストーリーが終わって、 ” 可能性に乏しい ” ただ生きているだけの時代に移り変わる。

誤解してほしくないのは、決して年老いていくことを否定しているわけではない。
ただ生きているだけでも、これから様々な困難が待ち受けている。
今までだって蠅るような奇麗事ばかりじゃなかったんだ。

今さら夢も希望もないけれど、それでも枯れかかった心に息吹を注いで生きていく。
もしこの先、職を失うことになったとしても、貧困で住む場所が無くなったとしても、道で暴漢に襲われたとしても、大きな怪我や病気に苦しめられたとしても、事故や災害の被害に遭ったとしても、どんな災難が降り掛かったとしても、それでも生きることをやめない、諦めない。

本当の強さってなぁんだ?
打ちのめす力?
ブブーヽ(`Д´)ノ

『 屈しない心 』
せいかーい(^_^)/
はらたいらさんに3000点~

ってことはもしかして
『 人間は生きてるだけで強い 』
ってこと?
かもね~

何があってもドンドン行けー!!!
ゴーゴーゴー(・∀・)

今が人生。

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