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関心をもってもらうことなしには、喧嘩もできない

むかし、江原啓之さんがご自身の著書のなかで、こんなふうにおっしゃっていた。

意味があるから生きるんじゃない。生き抜くことに意味がある

江原さんの本は、私が人生の迷い子となっていた時期(生きてる限り、人はいつも迷い子と思うけれど)、よく読んで勉強させていただいていた。

講演会にも、2回足を運んだ。

時代の寵児となられていた方なので、色々と人からの念もたくさん受けたりして、大変なこともおありだったのかなぁ、と僭越ですが私なりに感じるところもあった。

でも、確かに、と思う。

その言葉を聞いた時、はじめ私は、「え、意味はないの?」って思った。

でも今は、なんとなくわかるような氣がする。

難しい言葉で言ったら、"カルマの法則"ということになるかとおもう。

私たちは、色んな役を演じあうことで、色んな経験をするために、この世に生まれ落ちる。

私には、生まれる前の記憶とかは認識できないので、前世とかのことはよくわからないのだけれど、

なんか、こんなふうに思うことがある。

今生において、現在、力があって、人に悪事の限りを尽くしているかに見える人も、

子どもの頃、その社会的な立場によって、信じられないくらいのひどい思いを経験されていたりする。

そんな話を直接、何人かの人から聞く。

障害児として、育った。

悔しいから、人の何倍も努力して、当時誰も知らない人のいない企業の社長へと登り詰めた。

自分で起業されている方って、なにかしら子どもの頃とかに人とは違うとても悔しい思いをされていたり、

親のために自分が苦労し、むしろ自分が親を支える側に回る、という経験をされていたりする。

母親の苦労を間近で見てきたからこそ、自分だって死ぬほど嫌な思いをしてきたのに、人の弱さを責めない、信じられないほど優しい人格を獲得するに至った人もいる。

だから、本当に人生とは不思議なものだなぁ、と思う。

みな、寂しさの裏返しで、自分が辛い思い、嫌な思いをしてきたからこそ、自分に足りない、これさえ手に入れれば自分も幸せになれるんだ、と信じたものを手に入れるべく努力し、そしてついにそれを手に入れる。

しかしその時には、逆に人を傷つけることにもなってしまっていたり…。

そんな話を聞くと、私にはとても強い立場にある人のことを、単純に悪人だなんて、とても思えないのだ。

彼も、小さい頃、生まれ落ちた環境によって、社会からたくさんの理不尽を受けていた。

私たちはみな、自分の立場からしか、ものを見ることができない。

自分の目を通してしか、物事を認識することができない。

このようにしてしか(実際に痛い思い、痒い思いなどをすることによってしか)、私たちはなにかを経験することはできないから、

あたかも感情や感覚と自分は一体であるかのように感じ、痛い、苦しい、とのたうち回ったりもする。

私たちの人生において「不幸」とされる経験は、例外なく?、私たちにこんなみじめな思いを味わわせてくれる。

でも、それは、「ほんらいの自分」ではない。

そのあたかもそれがすべてであるかにみえる感情や感覚を透過したところに、また違う世界が広がる。

愛の反対は無関心、という。

関心を持ってもらうことなしには、喧嘩さえできない。

人は、寂しいから人に喧嘩を仕掛け笑、同じように寂しいから人を愛するのかな、なんて。

どちらもあまり変わりはないことなのかもしれない。

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