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じぶんの定義づけは、じぶんがすればいい

なにかに"名前をつける"ということ。

あるいは、ある事象を"分け"て、それを一つの概念とし言葉をあてがうこと。

これによって、それまでにはなかった、新しい"なにか"が生まれ、実態が形づくられはじめる、ということがあるようにおもいます。

言葉というのはだから、ある意味においては、"発明"でもあるのかもしれない。

たとえば、"発達障害"ということば。

昔は、そういう言葉って、あったでしょうか?

言葉は、なにかその社会における"標準"や"規範"のようなものを作りだし、またそこに合わないことを"分ける"ために作られるような気がしてなりません。

だから、それはあくまで社会の側の都合でつくられている。

なにかしらの言葉なり定義をじぶんやじぶんの子どもなどに当てはめ、"これに当てはまるかもしれない"って思うことで、安心するという心理は、

おそらく"社会"という文脈のなかにおいて、ある種の"居場所"のようなものを与えられる、という感覚もあるのかもしれない。

でも、はたしてそれは、ほんとうにそうでしょうか?

社会というのは、その社会の"標準"に照らして、なにかしらの"過剰"をかかえている人、その枠におさまらない人をよしとしない傾向があるようにおもいます。

しかし、それはなぜ?

それは、そのような人が、その社会における価値の体系を踏みやぶっていきかねない存在だから。

たしかに、わたしたち人間の世界では、なにかしらの価値づけや体系づけにもとづいた、価値の"序列"というものがあるとして、わたしたちは子どもから大人になる過程において"社会化"をほどこされます。

でも、社会というものの構造を見てみると、"上"と"下"はつながっており、"善"と"悪"も区別がつかない、ということがあったりする。

抽象的な言いかたですが…。

だから、ルールなり"規範"なりは、守る側が一生懸命に、じぶんをその枠のなかに収めて生きるべく(すくなくとも表面上は)、苦しいながら努力しているという種類のもので、

それを作る側というのは、それをお手本として守るどころか、その構造じたいが、彼らの立ち位置の正統性を確保するための手段として存在するにすぎない、

ともいえる。

もちろん、わたしたちは"社会"のなかで生きているわけですが…。

社会のじぶんへの"定義づけ"を、逆に利用して、その人にしかできないこと、豊かな才能を発揮して活躍されている、そんな人たちもたくさんいるとおもいます。

そして、多かれ少なかれ、なにかしらのそのような"境界領域"を知る人たちというのは、往々にして、この世の中の"秘密"というものに触れるから、

なんらかの方法で、その人の才能を発揮することになったり、ということがあるのだとおもいます。

だから、

じぶんの定義づけは、じぶんがすればいい。

長くなりましたが、結論は、これでした笑

本日も、お読みいただき、ありがとうございました😊

Beautiful Harmony Yoga 

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