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どの情報を真として受け取り、またそれとは別に自分はこの状況に対してどのようなスタンスを取るのか

2014年、仙台での講演会で、当時時代の寵児としてご活躍だった江原啓之さんは、このようにおっしゃっていました。

精神の正常を保つことが難しい時代が来る

日本の経済が大変なことになる

スピリチュアルなんて非科学的だから信じない、という方もたくさんおられるかもしれません。

スピリチュアルにかかわる方達はたくさんおられますが、

私の場合はまずは自分

そして迷った時に参考にさせていただくところは、決まっています。

その能力もさることながら、言うことやスタンスが一貫していて、私情を挟むことのない方。

凄いなぁ、と思います。

冒頭の時期は、しばらくは江原さんのお書きになるものをよく読んで勉強させていただいていました。

最近はますます、世の状況は厳しさを増しているように思われます。

周囲の状況が悪くなれば、自分に影響しない、ということはない。

色々なことを感性で感じ取ってしまう人ほど、心からやられていってしまうように思います。

私も例外ではありません。

これまでずっと人の心を支える側に回ろうと努力してきましたが、

そういうスタンスを示し続けていると、周りの人は「この人は大丈夫」と思い、立場の異なる様々な人々がそれぞれの思いをそのままぶつけてきたりします。

冷静であることは大切ですが、自分の中に寛容さを保ち続けようとすると、自分に大きな負担がかかることになる。

特に、状況が厳しくなるほどに(行動を起こさないならなおのこと)、私たちの間には分離が広がり、人のことが許せなくなり(生物として自分を守る本能でしょう)、自分および本当に近しい人がどう生き残るかを考えざるを得なくなるように思います。

たとえば震災の時。

私は水害には遭っていませんが、水に溺れた人は最悪の事態では誰かを守ろうとすれば自分が助からない、

その究極の選択を迫られたかもしれません。

様々な情報がある中、どの情報を真として受け取り、またそれとは別に自分はこの状況に対してどのようなスタンスを取るのか。

その選択をし続けないといけない。

時と共に、見えてくることも変わってくるということもあるでしょう。

ただ、おそらくまずは今考えられうる最悪の事態をも想定した上で、自分の行動を選ばないといけないということだと思います。

皆、いつまで冷静さを保つことができるかわからない、

というかそもそも、事実として認識していること自体が大きくかけ離れている人とは話も行動も合うわけがない。

でももちろん自分とまったく同じスタンスの人がいるわけはないので、それぞれの人と互いの興味関心利害の合うところで関わり合うということになると思います。

すべて突っぱねてしまったら、おそらく生きて行くことが難しくなる。

既に、一触即発ぐらいの精神状態、現状にはなってしまっていると思います。



危機においては、それまではオブラートに包まれ、直視しなくて済んだ人間の様々な面が表に表れてくると思います。

たとえば家族の誰かか健康に不安を抱えた時。病気になった時。

経済的に追い込まれてしまった時。

震災のような社会的に危機的な状況。

今回のコロナほどの世界的な危機的状況も、これまでなかったのかもしれません。

自分の心の中に長年押しこめてきたもの、我慢してきたこと、心の傷なども表面化する。

自分のなかの本音や矛盾も、見て見ぬふりができなくなる。

特に社会的な文脈のなかで抑圧せざるを得なかった感情などは、その最たるものかなと思います。

それは、向けられるべき相手に向けられれば良いと思いますが、多くの場合は関係のない他者に場当たり的に向けられるように思います。

優しい人や頭のいい人、周りを見て自分の行動を考えることのできる人ほど、余裕があるようにみえるので、周囲はその人に様々なものを押しつけがちになると思います。

そんな人は、自分ばかりが我慢している必要はなく、時にはハッキリと自分の強さを周囲に対し示すことが自分を守るために必要と思われます。

周囲は、自分がその人に負担を与えていることにさえ気づいていない場合もある。

でもその人のなかでは、相手が自分に与えてきた負担についてはハッキリと認識しているので、

寛容でい続けることが自分の生命に関わる、となった場合には、その負担の度合いの高い人から順番に関係性を切っていく、ということになるのではないかな、と思います。

特に社会的な地位の高い人や、男性、お嬢さん、お坊ちゃん、今まで大きな困難に面したことのない人、"常識"を疑わない人ほど、危機においてその弱さが露呈する傾向にあるように感じます。

それを人に押しつけることで解消しようとするのも、そんな人達。

でもその時にはもはや、本来優しく寛容であったはずの誰かは自分に以前は示してくれた寛容さを示すほどの余裕はなくなっているかもしれないと思います。

できればいつも楽しく穏やかでいたいものですが、無理にそれをして自分に負担がかかり過ぎるのも良くないし、

現実は現実として直視しなければ、次に自分の取るべき行動も見誤る。

私も決して余裕があるわけではありません。でも、自分の思ったことを率直に発信することは大切と思います。

自分に合う人、合わない人、細かな差異についても認識できるし、誰かの心の変遷を追っていればこそ、その人に対する正確な認識にも近づくと思います。

差し当たり私は今、この社会的危機に際し、これから自分はどのように生きていこうか、ということを考え続けています。

長文お読みいただき、ありがとうございました。

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