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夫から「言葉のDVだ」と言われショック!な話を仲間に聴いてもらった話


リスナー&事務局サポートのひろみです。これは今からもう2年も前のエピソードです。「聴いてもらう」効果があまりにも鮮烈だったので忘れられない話。家庭内のことで少し恥ずかしいのですが、紹介させて下さい。

2年前のある朝、今は6歳の娘が4歳の頃、テレビでDVに関する特集が流れた。するとパートナーが言った。「あなたも前にこれやってたよね。あなたのは言葉のDV」そのときの私の気持ち。なんて表現したらいいんだろう。カーっと頭に血が上って、そのあと、途方もない哀しさが込み上げてきた。そして追い打ちをかけるように言われた。「やってる本人は気づいていないけど、やってることは実はDV、っていうのもこの特集で言っているのと同じ。」そのあとのことはよく覚えていない。「そんなにひどかった?」とかなんとか、かろうじて反応して、朝食や弁当の支度か洗濯か、とにかく家事と育児に没頭するフリをしたと思う。しばらく、その言葉が頭から抜けなかった。思い返すたびに、込み上げてくる感情。あれは何だったんだろう。怒り?哀しみ?悔しさ?虚しさ?後悔?

そのDV特集を見てから数週間後のこと。当時私は、リスママのリスナー養成講座の受講中で、欠席した講座の実習練習のため、個別で聴き合いっこをする機会があった。私は同じ講座を再受講中の先輩リスナー研修生にこの話をした。上記の夫の発言に加えて、以下のような内容になる。


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パートナーが言ってたのは、このTVを見るさらに3年ほど前のこと。
娘が1歳前後の頃、確かに私はイライラしていた。出産を機に仕事をやめ、向かない専業主婦になり、初めての育児。パートナーは、前妻との間に当時15歳を超える3人の息子がいて、彼にとって娘は4人目の子だった。赤ちゃんへの慣れ具合が違うからか、娘が0歳の頃は、私が抱っこしても泣きやまないのに、彼が抱っこするとすぐに泣きやむことが何度もあり、よく笑い話にされ、私は正直落ち込んだ。

さらに私の生活の変化は、新生児の育児だけではなかった。なんと娘の生後45日から、彼の次男坊(当時18歳)と全く予期していなかった同居が始まり、その数か月後には三男坊(当時17歳)も引っ越してきたのだ。家事育児に向いてない私が、いきなり3人の子持ちに!?もちろん同居を始める前には、パートナーは私の意向を聞いてくれた。単純に「面白そう」と思ったのは我ながら想像力が足りなかった。始めてみないとわからなかったことが多すぎた。5人で住んでいて、血の繋がりがないのは自分だけ。自分も住む家なのにアウェイ感満載。

自由気まま(に見える)男三人に振り回され(と私は感じて)、授乳をするにもいつ誰が帰ってくるかわからない落ち着かなさなども重なり(しかも子どもたちは珍しい赤ん坊見せたさかよく友だちを連れてきた叫び叫び)、私はしだいにイライラし出した。

転がっているだけで、ただただ可愛かった娘が、だんだん動き出し、私にとっては迷惑としか感じられない行動を繰り返す。娘と二人でいるのも辛いと感じたが、誰かが帰ってくれば、そこから家政婦のような時間が始まる(実際、家政婦として雇われているのなら構わないのだが(笑))。いつしか私のイライラは常態化してしまった。

娘の夜泣きで寝不足の中、朝、私は目覚めるとその瞬間から戦闘モードスイッチが入ってしまう。まず行くトイレで上げっぱなしの便座を見るとヒートアップ。食卓に、食べたまま洗っていない食器、ときには全く手をつけられていない料理がそのまま残っているのを見てボルテージは上がる一方。起きてくるパートナーや子どもたちに「おはよう」をいう気にすらならず、言ってもトゲトゲしくなる。その頃の私は、全身で不機嫌オーラを醸し出し、発する言葉はいちいち角がありまくりだったと思う。同居する方はたまらなかっただろう。

だんだんそんな自分を自分でも持てあまし、ある日、目にとまって参加した
「幸せとヨガ」というワークショップで驚きの知識を得た。「授乳中などに多く分泌される愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンは、過剰になると、愛する対象に協力的でないもの、育児の邪魔をするものに対して攻撃的になる性質がある。例えば、育児の最中、自分がこんなに頑張って子供を育てているのに、旦那は全く手伝ってくれないときなど、ものすごく憎らしく感じるようになる。」

私の今の状態はまさしくこれだと自覚した。(元来怒りっぽい気質も大いに影響していたと思うが、このときはオキシトシン過剰のせいの方が受け入れやすかった。)パートナーも子どもたちも娘の育児に協力的でないわけではなかったが、彼や彼に付随する子どもたちは、「私」が娘の育児をするにあたって、気持ちと時間の余裕を奪う存在=邪魔をするものに思え、代表としてパートナーが攻撃対象になっていたのだ。

そう自覚してから、早2年が過ぎた。私はその間、朝4時に起きてヨガをするなど、かなり意識的にホルモンバランスを整えるようにし、イライラモードに陥らないよう注意した。実際、パートナーにも最近怒らなくなったと認められるようになって既に1年以上経っていた。そんなとき、ふいに浴びたパートナーの「DV発言」だった。言葉にならない感情がこみあげてきて、ずっと忘れられない。

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そこまで、私は高ぶる感情をおさえながら、一気に話した。講座の受講生どうしの聴き合いの練習で、夫の発言によって動揺しまだ消えないショックについて、2年前の私の状況について、一気に話し終えた私。

聴いてくれた仲間は、とても丁寧に要約してくれた。私自身は期待していなかったヨガの部分まで、本当に丁寧に。その要約を聴いていたら、ほろほろと涙が出てきた。自分でもびっくりしたが止められなかった。「あ~、この人は私のここに至るまでの何年分の想いを全部わかってくれた」そう感じた。すると不思議なことに、パートナーの発言に対して、それまで心の中で延々と彼を責めたり、彼に対して弁明しまくったりしていた自分がスッと消えた。そのタイミングで質問された。はっきりとは覚えていないが、「パートナーに今、言いたいことはありますか」とかそんな感じだったように思う。とにかく、過去ではなく、「今、どうしたいか」、に意識が向く質問だった。「ムカつく、イラつくことはいっぱいあったけど助かったこともたくさんあった。もっとそっちに目を向けて感謝したい。」そう話している自分の声を聴いて、意外な気がしたが、確かにそう言っていたのだ。

その言葉を優しいながらも力強くオウム返しをされたあと、続けて「今日、帰ってきたら、彼になんて言いますか?」と質問された。この質問で、そうあれたらいいな、という理想、願望が一気に現実として舞い降りてきた。素直にありがとう、あのときはごめんなさい、とかは多分言わないけど、いつもより優しい気持ちで「おかえり」が言えるなと思った。そして、その日の夕食は彼の好きなつまみを一品加えて作った。

TVを見てから話を聴いてもらう前までの数週間、私はふとした瞬間に「言葉のDV」と言われたことを思い出すたびに、言いようのない想いが噴出爆弾していたが、この時を境に見事にそれは消えた。思い出すことはほとんどなくなり、思い出しても心が乱れることはなくなった。思えば、それまで、あんなにも丸ごと自分の話を聴いてもらった経験がほとんどなかった。出産以降は友人と長電話する時間もなかった。心から大切に「私のストーリー」を扱ってもらった気がした。

たった、一人、オンライン上で数回しか会ったことがない人。それでも自分を丸ごと、受け入れ、認め、共感してくれる人がいたことで、私はそれまで自分でも受け入れきれていなかった自分を受け入れることができた。(そう、やっぱり私は、あんなにも日々イライラし、当たり散らしていた3年前の自分を恥じていた。それを認めたくなく、全てを他人と環境のせいにしていた。)

パートナーは彼なりに一生懸命、娘の育児をやってくれていたし、イラだつ私を受け入れながら暮らしてくれていた。彼も私の態度や暴言に傷ついていた、という表明である”DV”という強い言葉に反応して「あなたの何倍も私の方はもっとしんどい想いをしていた!」と主張したい気持ちもどこかへ消えていた。無理にわかってもらおうと突き付ける必要はない。こちら側からみえる景色に、共感してくれたたった一人の人がいたことで、そう思えたのだ。

これが、2年前の私の体験です。実は、私の中で、きちんと20分聴いてもらった2回目くらいだったと思います。温かい「共感」の持つ、圧倒的なパワーを身をもって感じました。今ならはっきりとわかります。私が、娘が1歳の頃からずっと渇望していた「私の気持ちをわかって!」という共感の相手は、パートナーである必要はなかったのです。「たった一人の他人」と「自分自身」でよかった。 そして、その共感が得られたら、パートナーに求めていた私への尊重、サポートは私が求めていた場面とは多少違ったかもしれないけど、既に充分にあったことに気付けました。

私は、リスナー養成講座を受講しながら、自分が聴いてもらう「必要性」があるとは思っていませんでした。実習や課題として「聴いてもらう」ことが含まれていなかったら、自分が「聴く」練習をすることに必死になり、「聴いてもらう」ことは敢えてしなかったかもしれないません。

人は、自分はよほどのことがない限り、誰かの手を借りようとは思わないところがあります。むしろ、自分が誰かに手を貸そうとしたり。私は、思えばこれまでの人生ずっとそうでした。でも、このとき知りました。自分で思うよりはるかに多く、人の手を借りた方がいいときがあると。「必要」と自覚しなくても、話し、聴いてもらうと、想像していなかったような軽やかな世界が開けることがあります。2年前、実習練習で聴いてもらわなければ、私はきっと今でも「言葉のDV」という夫の発言に引っ掛かり続けていたでしょう。逆に5年前にリスママを知っていたら、当時止められなかったイライラについて、もっと小出しに話を聴いてもらいながら気持ちを整理し、パートナーやその子どもたちに冷静にリクエストを出すことができたと思います。彼らと幼い娘、私との共同生活は、私自身も含めたみんなにとって、もっと心地よいものになったはずです…

「話す」「聴いてもらう」はたった「20分」。聴き手であるリスナーは
「一緒に同じ景色を見て温かい時間が過ごせたら嬉しい」とスタンバイしてくれています。2年前の私の数週間にわたってやり場のなかった気持ちも、
さらに5年前の私の暗黒時代の話もたった20分の「話して聴いてお互いに満たされた時間」で一変しました。

ここまで長々お付き合い下さった方、ありがとうございます。皆さんも20分、前髪を切りに行く、くらいの気軽な気持ちで試してほしいと思います。
きっと、これまでとは違った景色が開けますから。

(2020年2月6日、2月8日の記事より)


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