静なる夜

 繁華街。一体ここに華が繁っているというのなら、華とは夜の対立項なのだろう。というのも、花ではなく華なのだし、人間は豪華な電飾と嘩しい電子音によって華々しく夜闇を忘れているのだから。夜鷹つぐみはマフラーに顔をうずめたまま、足取りの優柔不断を全国チェーンの喫茶店で済ますことにした。この通りの各店舗が驚くほどの精密さで自らのテリトリーを区分しているということは、匂いでわかる。ガラス張りの戸を後ろ手に閉めてしまえば、ささやかなベルの音によって外の塩っ辛い匂いは忽ち消し去られる。それに代わって今度は、これ見よがしな珈琲の香りと、流行りの歌のピアノアレンジが客を消費へ持ち運んでいくのだ。


 この華々しい人間賛歌の照明の中でしかし、つぐみは夜が送り込んだ伏兵の存在に気が付いた。彼らの名前は『きよしこの夜』、そして"Happy Xmas"という。つぐみはこれらの旋律にはどうも弱いようで、マグカップに唇を当てたまま半ば演技的に動きを止めてしまった。これらの曲だけは、「定番曲」という仮面によって白夜の祝祭の関所を通過した夜のスパイなのだ。「ほしはひかり」、「ねむりたもう」の音程、"War is over"の反復する鐘の響きに捉えられた者は、夜の静謐と持続を取り戻すことになる。そして思い出す。12月25日は決して「聖なる日」ではなく、「聖なる"夜"」なのだということを。クリスマスは何色か。赤か緑か。しかしそう答える背後にはいつも夜空色が暗黙に前提されているのだ。

 ところで由木康は『パンセ』の邦訳もしている牧師であるが、『きよしこの夜』の訳には光り輝くキリストのモチーフが表れている。"Stille Nacht"原文に「星」や「光」を意味する語は含まれていない。英訳者ジョン・フリーマン・ヤングもまた"all is bright"「全てが輝いて」と、光を読みとっている。確かにベツレヘムの星、キリストの誕生の星が輝いているであろう場面ではありながら、しかし原作者ヨーゼフ・モーアが描出したのは"Alles schläft; einsam wacht"「全てが眠り、ただひとり目覚めている」であった。この「目覚めている」の主語は続く"Nur das traute hochheilige Paar"であろうが、"Paar"、即ち「ペア」が何を指し示しているのかは様々な解釈ができるだろう。何にせよ、ここに光は描かれておらず、その代わりに〈取り残された目覚め〉がある。こうして初めて題名「静かなる夜」(『しずけき』)が意味を持つ。聖性に静性が先立つことにより、「聖性」が不埒な明るさを持ち込む余地が封じられる。その点で、『きよしこの夜』は"heilige Nacht"を訳出したものだが、「きよし」という訳に、若干の静謐の息遣いが見えるかもしれない。或いは「"この"夜」と、目の前の一回の個別的な夜を指さす言葉が加えられたところに意義を見出すこともできよう。


 店内放送が別の曲に切り替わり、つぐみは視覚へ帰ってきた。マグカップには少しだけ茶色い水垢ができている。小さな鞄から手帳を取り出し、年末の予定を確認することにして、もう今年の内に会うことはない友人が何人かいることを知った。彼らにはもう「よいお年を」と挨拶することもないだろう。「よいお年を」。せめて彼らのその後を想いながらつぶやくしかない。残り僅かな珈琲の水面も揺らがない。「よいお年を...」、この後に何が続くのか、何人かの人に聞いて回ってもよいとしても、つぐみは「お過ごしください」と続けるつもりでいる。何せ、この静かなる夜とは紛れもなく、この〈年〉が迎える夜なのだから。今まさに、360日ほど生きてきた〈年〉が永遠の眠りに就こうとしているのだ。それを見守る我々、大晦日を目覚めたまま跨ぐ我々が担う役目は、息せき切って翌朝の話をすることではなく、落ち着かなく人恋しく寒そうにしている〈年〉を、丁寧に温め寝かしつけてやることなのだから。よいお年を迎える前に、最期を迎えようとしているこの年を労わったってよい。大晦日の夜の居間=今の持続、深夜初詣の待機の持続、除夜の鐘の響きの持続、初日の出を待つ永き時、仕事の無い三が日の弛緩した時間。我々が12月25日を無為にしてしまったとしても、まだこれらがある。

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