幸せになるとは、視野を狭めること

人間以外の動物と人間のちがいの一つとして、人間は未来を思考できる能力があるという点がある。しかし、これはやっかいな能力だ。思考できたとして、予知できるわけではない。何が起こるかわからない未来のことを考えては疑心暗鬼におちいったり、自信を喪失したり、はたまた楽観的になりすぎたりする。めんどうなことだ。

わからないことを逡巡しつづけて消耗するのは、あまり望ましくない。考えすぎてやつれている人はそれはそれである種の魅力があるけど、限られている体力は効率的に使いたいし、なるだけ楽しく生きたい。

そんな現代人の葛藤にたいして、たくさんの処方箋が世に出ている。たとえば、「今を生きる(Being present)」ことに関する言説。未来のことを考える前に、今に集中して精一杯生きなさい、と。こちらでは"Zen"(「禅」から来ている)ということばがちょっと流行っている。他のアプローチとして、未来のことをかえりみる暇がないくらい、自分を忙しくしておくっていうのもある。先のことは考えずに目の前のやるべきことを効率よくこつこつと積み重ねなさい、という考え方もある。これは自己啓発系の本とかによくあるセオリーだ。おもしろいことに、すべて視野を狭めることを推奨している。どれも本当らしいし、きっとちゃんと取り組めばなにかしらの結果を得られるんだろう。

でも、そんな高尚なことは聞きたくないくらい、なんだかやる気が出ないときもある。そんで、そんなときに限って、将来のことについてぼんやり考えちゃったりして、憂鬱な気分になる。わからないという状態は、苦痛になりえる。なんでも検索すればすぐ「わかる」時代、わからないことに対して耐性が弱くなっているのかもしれない。さらに現代人の多くは、苦痛を和らげるために神に祈り続けるほど純粋な信仰をもっていない。確固とした哲学ももっていない。まったく、何に頼ればいいんだろう。

たぶん、頼るという考え方自体が苦痛を生んでしまうのかもしれない。期待を裏切られることは苦痛につながるから。結局は「苦痛」という知覚は自分自身が生み出しているものであるから、なにかに頼るのではなくて自分自身の視座を変えるほかないんだろう。

人間が苦痛から逃れられている状態は、すなわち「幸せ」な状態は、視野が狭まっている時だと思う。視野が狭いということは、必ずしもネガティブなことではない。それは、自分が見ているものを世界全体だと思える能力でもあるからだ。ごはんが旨い。花が美しい。隣の人が笑っている。こんなありふれたことさえも、幸せになるための十分条件になりえる。いまを幸せに生きていると、未来についても楽観的になる。「いまこうして幸せなんだから、将来もきっと幸せだ」。この思考は、一人の人間に起こりえるさまざまなリスクを考えれば落とし穴と言えるかもしれないけど、その人がいま享受している幸せの質を考えれば、そっとしておいてあげたくなる。

一方で、視野が狭いということは、ネガティブな意味もある。世の中で起こっているたくさんの不合理なこと、不正義なこと、人々の苦しみからあえて目をそらしつづけることは、名誉なことだろうか。現代社会はあまりにいろんなことが交差して入り組んでいるために、社会課題というのは取り組まれることなしに解決することはまずない。だから、いま世の中で起きていることへの視野を広げることは大事だと思う。だけど、視野を広げては自分の無力さに直面して、苦痛を感じてしまうのもよくない。

やっかいなことだ。なにか一つの教義に従えばみんなハッピーになればいいのに、現実はそんな単純じゃない。

この話に結論はないし、現代の苦しみに新しい処方箋を提示したいわけでもない。ただ、わたしの身に起こっていることをちょっと拡大して考えているだけだ。なにが起こっているかというと、最近視野を広げすぎて、疲れているということだ。「考えすぎない」みたいなメンタルヘルスに関するアドバイスは身近にあふれているし、それが大事だってことはわかっているんだけど、どうも実践できていない自分がいる。もっぱら大学院でサステナビリティの勉強をしているので、太刀打ちできないような複雑で膨大な環境・社会問題に毎日触れている。知るということは課題解決の第一歩であると信じているけど、知ることの津波に押し流されて、課題をどう解決できるかというより発展的な思考までたどり着けていない自分がいる。さらに勉強だけではなくて、暮らしのこと、人間関係、いろいろなことが新しい視野を与えてくれる。与えてくれやがる。

留学のおかげで視野が広がったいま、わたしは疲れている。幸せを感じるセンサーが日に日に鈍くなっている実感がある。留学前は、もっとポジティブシンカーだったと思う。それは視野が狭かった証拠でもある。で、それ自体は悪いことではない。ただの事実だ。いまは、わりとネガティブな気持ちに直面することが多くなっている。別にこれ自体も悪いことではない。視野が広がっている証左だともいえる。

幸せを感じるには、あえて視野を狭めてみることも、時には大切だ。「いまを生きる」的な手あかのついた教訓にわたしのこの複雑な思いを還元されるのは癪であるが、まあ簡単にいうとそういうことなんだろう。でも、視野を広げることはやめない。わたしの性分がそうさせてくれない。視野を広げつつ、いまを生きよう。

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