見出し画像

Day22. 環境をめぐる世界観

テストが終わって、ちょっと気持ちが緩んでしまっている。やるべきことはたーくさんあるけど、とりあえず忘れて、きちんと休むことも大事かなと思っている。そうしないと、溜まっているやるべきことリストに圧倒されて、心まで疲れてしまうからだ。という感じでサボりを正当化しておく。

さて、今日は「環境をめぐる世界観」について一緒に見ていこう。

二つの大きな環境観

「自然資源は、人間の繁栄のために自由に使っていいものだ」
「地球上で人間が一番優れた生き物なのだから、人間が適切に資源を管理しないといけない」
こうした世界観は、「人間中心的環境観」と呼ばれるものだ。

一方で、自然からの教訓をもとに、よりシンプルで持続可能な生活を送るべきという考え方もある。

環境をめぐって、大きく分けてこんな二つの価値観が存在している。そこでは、人間のニーズや欲求、もしくは生態系や生物圏の全体的な健全性、どちらを重要視するかがポイントとなっている。

今まで"Living in the Environment"のテキストを通じて見てきた通り、前者の考え方だと、際限なく地球環境を破壊してしまう危険性がある。とはいえ世界全体で見ると、まだまだ後者の考え方は一般的になっていないと感じる。どちらかというとヒッピー的な、サブカルチャー的な位置付けにあるような感じだ。とはいえ、持続可能な社会を築いていくにあたって人間中心的な考えに固執しているようでは、正直なところわたしたちには未来がない。

それぞれの価値観を読み解いて、考えるきっかけにしてみよう。

人間中心的環境観

人間中心の環境世界観とは、人間のニーズや欲求を中心とした世界観のことである。その一つとして、多くの人がもっているのが「地球管理世界観(planetary management worldview)」なる見解だ。

この見解によれば、人間は地球上で最も重要で、知的で、支配的な種である。そのため人間は、自身の利益のために地球を管理することができるし、すべきである。他の種や自然の価値は、それらが人間にとってどれだけ有用であるかに基づいている。まさに、人間中心的と言える考え方だ。

この「地球管理世界観」には、いくつかのバリエーションがある。

1. ノープロブレム派
人間は、経済成長を発展させてより良い開発、管理を行い、技術を駆使することで、環境、人口、資源といった問題を解決することができると考える人たち。

2. 自由市場派
政府の干渉と規制を最小限に抑えた自由市場型のグローバル経済こそが、人類の利益のために地球を管理する最善の方法であると考える人たち。

3. 宇宙船地球号派
私たちが地球と呼んでいるものは宇宙船のようなもので、私たちがバランスよく理解、支配、管理できる複雑な機械だと考える人たち。

4. スチュワードシップ世界観
ここでのスチュワードシップ(stewardship)というのは、「管理者」といった意味合いだ。「私たちには地球を救う倫理的義務がある」として、「人間たちが適切に維持管理せねばならない」といった考える人たち。

「宇宙船地球号」のイメージは、1960年代から今まで人々の環境への意識を高める上で大きな役割を果たした。でも、地球というものは、人間が作った機械のように理解や操作ができるような代物ものではない。あくまで、私たちは地球の38億年の生命のうち約20万年しか存在していない新参者なのだ。そんなわたしたちが地球を理解して管理できる可能性は低いということを忘れてはいけない。

 「スチュワードシップ世界観」もなんか一見良さそうなことを言っているけど、よく見てみると、そこには全知全能的な人間の姿が見え隠れしている。こうした考え方は「傲慢な無知」だと一部で批判されている。というのも、「そもそも地球は救う必要がない」からである。地球は、環境条件が大きく変化したにもかかわらず、38億年もの間、信じられないほど多様な生命を維持してきた。救うべきは、生命維持システムを劣化させ、ほとんどの種の絶滅の危機に瀕している現在の人類文明である、と。

いささか手厳しいけど、その通りだなと思う。"Save the earth"論に感じるモヤモヤはこれなんだよな。地球は別に救ってほしいと思っていない。わたしたちが滅びるか否か、焦点はそこにあるべきなんだ。

環境知恵世界観

「人間中心的環境観」に対するものとして、地球を中心とした世界観の一つに「環境知恵世界観(Environmental wisdom worldview)」と呼ばれるものがある。

この世界観の考え方はこんな感じだ。

1. わたしたちは、38億年もの間、自然が地球上の生命を維持してきたことを学び、自然からの教訓をもとに、よりシンプルで持続可能な生活を送るための指針とする必要がある。 

2. わたしたちは、生命の共同体と、生命を支える生態学的プロセスの一部である。

3. わたしたちは世界を支配しているのではない。

4. わたしたちは自然の科学的法則に従うものであり、それを破ることはできない。

5. 人間の経済やその他のシステムは、地球の生命維持システムの下部に属するサブシステムである。

6. 地球の自然資本は、わたしたちや他の種の生命を維持し、経済を支えている。

7. 地球の生命維持システムを保護することは、私たちは自分の利益につながる。「アースケア」とはすなわちセルフケアのことである。

8. わたしたちには、持続可能性の倫理原則に沿って、地球を私たちが受け継いだものと同等かそれ以上の状態に保つ倫理的責任がある。

ふむ。ぜんぶ正しいと思う。
でも、あくまで今は人間中心的世界観が主流なので、その潮流をおさえておくのも重要だ。つまり、高尚な概念ばかり唱えていても、社会はなかなかついてきてくれないということは忘れちゃいけない。

人間は利己的で短期的思考をもつ側面をもっていて、今の経済システムはそういう考え方となじみがよい。効率化、機械化、成長、さらなる成長。目先のことがとっても忙しいので、一歩先の未来さえ見えていない。現在か半歩先のことを一所懸命繕おうとしてばかりいる。そんな現実を前に、このリストを鼻先に突きつけられたところで、何人の人が意識を変えてくれようか。行動変容してくれようか。なかなか難しい話だ。

こじらせがちな倫理観の話

「環境知恵世界観」の論者たちは、人間にとって有用そうであるか否かにかかわらずすべての生命に価値があるとした上で、倫理観を生物圏(biosphere)まで広げることを主張する。一方で、様々なレベルの生命に対する倫理的関心をどこまで拡大すべきかについては、意見が分かれているという。
その倫理的関心レベルの図として載っていたのがこちらの図だ。

画像1

(出典: "Living in the Environment”)
自己(self)、家族(family)から地球上のすべての人々(all people on earth)、生物圏(biosphere)とレベルが上がっていく構図だ。

これを見て違和感を感じた。
というのは、別に生態系や他の生物への思いやり(倫理観)というのは、家族や他の人々に対するそれの上位に、必ずしもあるとは限らないと思うからだ。だから、垂直的な図じゃなくて水平型、かつ相互補完的な図の方がしっくり来る。自然環境への思いやりと家族への思いやりは、通底しているものだ。どっちが偉いも偉くないもない。

もちろん図が示したいところは理解できる。自分から始まって身の回りの人、人間、生物という広がり。でも、こういう考え方そのものが、人間中心的世界観の見方を補強してしまっている感がある。人間はあくまで自然の一部であるのだから、その大きな枠の中で、隣人を思いやったり生き物を慈しんだりしていれば十分健全だと思う。というか、それ以上のことができるだろうか。

"Think globally, Act locally" などと言ったりするけど、つまり直接的に自分が影響を及ぼし続けられるのって、この図でいう三段目のコミュニティあたりじゃないだろうか。垂直モデルで言うと大したことなさそうだけど、いやいや、それができたらあっぱれだと思う。その中で、"globally"に当たる部分として、人間が自然の一部であること、だからこそそれに即した生活をするべきだということが直感的に胎に落ちていれば、こんなに色々こじれることはないんでないかと思う。

行き詰まった時の人間の反応

歴史家によると、過去の人類文明を研究すると、崩壊に向かう文明には2つの警告のサインがあるそうだ。

第一の兆候は、文明がその崩壊につながる可能性のある複雑な大きな問題を理解したり、解決したりすることができないときに起こる思考停止(gridlock)である。

第二の兆候は、信念のすり替えである。 環境、経済、社会状況が悪化していることを示す科学的証拠やその他の証拠が増えているにもかかわらず、人々は脅威を否定し、何らかの新しい技術や未知の技術が文明の崩壊を防いでくれると信じる。

人間はあまりに大きな問題に面した時、否定したり、あえて関心が無いように振る舞いがちだ。こういった反応は、ある意味健全なものなのかもしれない。自分を守るための、硬い殻に閉じこもった姿勢。でも、残念ながらこうした反応は生産的ではないので、大概にして次のステップに進まないといけない。

この2つのサインは、それぞれ極端な悲観主義と楽観主義にドライブされている。すなわち、破滅的な悲観主義と、 盲目的な技術的楽観主義だ。こうした絶望や恐怖の感情によって身動きが取れなくなってしまってはどうしようもない。現実的な希望の力を与える感情をもち続けることが大事だ。

わたしたちの世紀

人間が抱える大きな問題を前にして、極端な楽観主義も悲観主義も有効とは言えない。じゃあ、どうすればええねん。
かのポール・ホーケンがポートランド大学の2009年の卒業生に語った言葉が素敵だったので紹介する。

When asked if I am pessimistic or optimistic about the future, my answer is always the same: If you look at the science about what is happening on the earth and aren’t pessimistic, you don’t understand the data. But if you meet the people who are working to restore this earth and the lives of the poor, and you aren’t optimistic, you haven’t got a pulse... You join a multitude of caring people... This is your century. Take it and run as if your life depends on it.

「将来について悲観的か楽観的かと聞かれたら、私の答えはいつも同じです。地球上で何が起こっているかについての科学を見て、悲観的でなければ、データを理解していないことになります。しかし、この地球と貧しい人々の生活を回復するために活動している人々に会って楽観的にならなければ、きみは脈ナシだ。...きみたちは、多くの思いやりのある人々の仲間入りをするのです。...これは、きみたちの世紀です。きみたちの人生がかかっていると考えて、そのバトンを受け止めて走りなさい。」

環境問題のデカさを前に、無力感と恐怖感に襲われて悲しくなる。一方で、その中で一所懸命社会や環境をよくしようとしている人たちを見て、ポジティブな気持ちになる。そんな感情の起伏を行ったり来たりしながら、私たちはインスピレーションを受け続けていくのだろう。それは決して安寧の地にとどまって幸せに暮らし続けると言うような筋書きではないけれど、確からしい生き延びていくための方策だ。


サポートありがとうございます。お金を使ったり体を張ったりする取材の費用に使わせてもらいます☺