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Day 19. ほんとに経済は至上のもの?

経済というと、ビジネス、株式市場、競争、みたいな言葉が連想される。だけど、そのもともとの役割はもっと健全なものだ。すなわち、人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての、一切の社会的関係のことをいう。現代の資本主義社会において、ほとんど全てのことが経済に関連している。そしてわたしたちはしばしば、経済の本来の意味を離れて、それに振り回されている。

今日は環境と持続可能性の視点から、経済の勉強をした。

経済は自然環境のサブシステムにすぎない

章の冒頭で、さっそく痺れる言葉に出会った。

生態経済学者や持続可能性の専門家の多くは、人間の経済システムを生物圏のサブシステムと見なしている。

まあ、そうだよな。だって、自然環境の上にわたしたちの活動が成立しうるから。でも、この当たり前に感じられる考え方は、「経済」の名のもとに市場で敏腕をふるっている人たちにとっては受け入れがたいことである。というのも、清浄な空気、海、森林などの資源は、誰のでもない上に安価もしくは無料で利用できるため、市場で売買されることがないために「価値のないもの」と認識されているからだ。

ずーっと前に打ち立てられた新古典主義的な経済原則はまだまだ色あせない。彼らにとって、自然環境は人間の経済のサブシステムにすぎない。そんな前提がありながら、「人間の経済システムを生物圏のサブシステムと見なしている」なんて言われると、かっこいいなと思う。ただ、これはあくまでものの見方の話だから、これが絶対的に正しいっていう話じゃないんだけど、少なくとも凝り固まった考え方に新しい視点を与えてくれる。

When it is asked how much it will cost to protect the environment, one more question should be asked: How much will it cost our civilization if we do not?  ーGAYLORD NELSON

"Living in the Environment" 第23章の扉絵のことばだ。
「自然環境を守るのにどれくらいお金がかかるのかという質問には、もう一つ質問が加えられるべきだ:もし環境を守らなければ、私たちの文明社会にどれだけコストをかけることになるのか?」

じゃあどんな経済が望ましいの?

新古典主義に対する環境経済学なるものがある。それは、多くの資源の供給には限りがあり、ほとんどの自然資本には代替品がないという前提の上に構築されている。 したがって、経済の焦点は、「無限の成長」から持続可能な経済と社会システムの実現を目標にした技術革新や改善に移行すべきとしている。

最近にわかに人気な「持続可能な開発」とか「SDGs」とかの考え方がこれだ。2015年を境に、こうした考え方がビジネスセクターにも浸透し始めていると感じる。これはざっくりと、いいことだと思う。

「限りない経済成長」は癌のようなもの

そもそも経済成長とはなんだろうか。いわく、「国家、国家、都市、企業が人々に財やサービスを提供する能力を高めること」だという。なんだか良さそうだ。経済成長は「国内総生産(GDP)」なるもので測られて、日々これを見ながらみんな一喜一憂している。よく考えたらおかしなことだ。だって、そんなのただの指標、数字に過ぎない。でも、そういう実態のないものが市場は動かしていて、じっさい現実の世界に影響をもたらしているから空恐ろしい。

下の図は、GDPに対して「実質進歩指標(GPI)」を設定して並べたものだ。GPIは、単純な成長面だけでなく有害な環境、健康、社会的コストの推定値を含めた指標だ。より財やサービスを提供してくれるという GDPはどんどん伸びていくけど、GPIは停滞したままだ。これはどういうことだろうか。

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(出典: Living in the Environment)

さて、大量生産・大量消費経済(high-throughput economy)において、継続的な経済成長は至上のものだ。これが達成できないとなったら、目の前が真っ暗になる。どんどん成長していくことが人々が豊かになる黄金律であるはずだからだ。でも、本当にそうかな。無限に伸びていく物なんて、自然界にはない。経済も自然環境の一部にすぎないとしたら、なんだか異常を起こしているみたいだ。

このくだりで、新しい経済の一つの形として「ドーナツ・エコノミクス」を唱えているKate Rawarthさんを思い出した。この講演での「腫瘍」の例えがとても印象的だった。永遠の成長は、本当に望ましいものなんだろうか。

目に見えないコスト

車をもつにはいろいろコストがかかる。ガソリン、メンテナンス、修理、保険、などなど。だけど実質的には、目に見えるコスト以上に多額なコストが隠れている。自動車を作るためにはエネルギーや鉱物資源を使われている。その過程で、固形物や危険性の高い廃棄物が発生し、土地が劣化し、空気や水が汚染され、温室効果ガスが大気中に排出されている。これらは、わたしたちや将来の世代、経済、地球の生命維持システムに有害な影響を及ぼす可能性のある隠れたコストだ。

こうした外部コストは車の市場価格には含まれていないため、ほとんどの人にとっては気づきもしない代物だ。しかし、わたしたちは遅かれ早かれ、健康状態の悪化、医療費や保険料の増加、公害防止のための増税、交通渋滞、環境悪化などの形で、これらの隠れたコストを支払うことになる。

自然資本がものすごい勢いで損なわれていく理由の一つとして、環境や健康に有害なコストの多くが外部化されて見えなくなっているという事実があるのだ。そしてそれは、既得権益者によって故意に行われていることがままある。

例えば自動車の環境への悪影響を抑えるためには、経済的なアプローチとしては利用料を上げることが有効だろう。隠れたコストを市場価格に反映して、利用者がしっかり払うようにすれば良い。簡単に言ってみたけど、もちろんこれは反対する人がたくさんいる。主に自動車メーカーやその原料、パーツを製造している企業たちだ。「そんなことしたら、自動車が売れなくなっちゃうよ」。厳しいけど、それは受け入れるしかない。既存の考え方にしがみついていると、振り落とされてしまう時代になってきている。「持続可能な社会(我々の会社)」のために、多くの企業も変容しようと精一杯努力している。

経済と仲良くなろう

環境問題って、市場経済と別ジャンルで語られることばかりだけど、もっと絡めて語られていいはずだ。むしろ、それぞれ個別に語っても根本的な課題解決にいたらず、ただ薄っぺらいだけだ。

今をときめく「経済」と同じ俎上に乗せて議論するには、環境問題が道徳的な課題の範疇に行儀よくおさまっちゃあいけない。「地球にやさしい」なんてやわな言葉でわかったふりをした顔をして、相変わらず自然環境を壊し続けるなんてこともナンセンスだ。

「人間の経済活動が自然を破壊し、大企業が暴利を貪り、こんな社会は許せない」とばかり主張していても、残念ながら現実は変わらない。経済と仲良くなって、お互いを理解して、協力して、わたしたちにとってより良い環境をつくっていかなきゃならない。そしてそれは実現可能なことだ。だって、人間の経済は、あくまで自然環境に内包されたシステムだからだ。もともと一心同体なんだもの、できないなんてことはないはずだ。

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