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「こうならないように歩いてきたのだ」〜ままならない20代〜

歌詞を聴く(intro)


人生観を語りそうなタイトルのくせに、音楽の聴き方というありきたりな切り口からスタートしてみる。イントロだと思ってしばしお付き合いを。

音楽(特に歌モノの邦楽)を聴く時に、先に歌詞が入ってくるか、曲が入ってくるか、というのは本当に人によると思う。
私は小さい頃から歌詞がまず聞こえるタイプだ。(実際曲を作る時も歌詞の方が浮かびやすい)
知らない曲が流れてくると、まず追えそうなら歌詞を追ってしまう。
歌詞に集中する分、意識しないと曲本体は入ってきてくれない。そのせいもあってか、音楽を本当に好きになって曲を作ったり、楽器を意識して聴いたりするようになるまで、私はベースを追うことができなかった。ある楽器を単体で聴こうとするなんてしたことがなくて、音楽を好きだとは思っていたけれど歌詞ばかり注目していた。
我が家には曲が聞こえるタイプを地で行く母がいるので、よく聴き方の違いについて話す。
母が「ここのベース音がいいんよ!」と言えば、私が「やっぱりここの言い回しがグッとくるわー」とか言っている。
当然、両方の聴き方を使い分けられるのが一番いいので、頑張って楽器の音を脳内で抽出してみたり、従来通り歌詞に酔いしれたりして過ごしている。
そして、そうこうしていたら、Homecomingsに出会った。(というか厳密には再会した。)


Cakes by Homecomings



Homecomingsは京都のとある大学内で結成された4ピースバンドだ。2012年結成らしい。
「出会った」と書いたけれど、厳密には名前を知ったのはもっと前で、曲も聴いた事があった。2021年5月のFM802ヘビーローテーションに、''Here''という曲が選ばれていたからだ。1ヶ月間、ラジオでしょっちゅうこの曲が流れていた。その時は、「ほー、これが今月のヘビロかぁ。特徴的な女性ボーカルやなぁ」くらいの感想しかないまま、6月になってあまりかからなくなった。
それきりあまり思い出すこともなかったのだけれど、とある大切な友達がかなり高頻度でこのHomecomingsの、''Moving Days''というアルバム(メジャー1stアルバム)を聴いていて、なんだか気になって再生してみた。

ボーカルの畳野さんの伸びやかで押し付けがましくなく、前へと通っていくけれど近くに寄り添ってくれているような歌声に涙が出そうになった。
曲の雰囲気も相まって、歌詞のフレーズひとつひとつを歌うたび、その語尾に句点がそっと置かれていくように思った。
アルバム全体を通して、前半最後あたりでお引越しをして、後半は新居、というイメージなのかなぁ、とか思う。ジャケットの引越し用段ボールに木漏れ日が差し込んでいるのがとても良い。
''Moving Days Pt.2''とか、語りたい大好きな曲は他にもあるけれど、ここでは''Cakes''を取り上げることにする。
この曲は2019年公開の「愛がなんだ」の書き下ろし主題歌だったらしい。
「愛がなんだ」、観たかったんだよなぁ。でも、何故か結局観られずに公開期間が終わった。なんとかして観てみたい。(今調べたらアマプラにあるのね…!)
映画を観ていないから、''Cakes''の詳しい歌詞の解釈はあまりわかっていないのだけれど、それでも聴いてみてとても胸を打つ一節があった。胸を打つというか、それ以上。キリキリと刺さってくる。

「夜明けのドアを叩いて こうならないように歩いてきたのだ」

こうならないように歩いてきたのだ。

強烈なフレーズだと思う。
こうならないように歩いてきた、けれどそう歌っている時点で「こうなって」いるよね。
そこにある一種の諦念のような物を、のびやかな、落ち着いた声でそっとサビの最後に歌うという強烈さ。

そこにある諦めは、絶望ではないのだろう。
温かく穏やかな光に包まれた諦念が歌われているように思う。

人生の中で、諦めなければならない場面がままある、という事に最近ようやく気がついてきた。
こんなことを書くと心配されそうだけれど、これはあくまで自分がコントロールし切れない、人間関係の話である。

諦め、と書くとマイナスなイメージが強いので、言い換えてみる。

「こう、ある」ことを認めること。
「こうならないように」自分としては誠意をもって向き合ったけれど、
「なってしまった」事は潔く認めて、手を引く。そういうことかもしれない。


段階を踏みながら生きている





エリクソンの漸成的発達理論というのがある。

長ったらしい名前だが、要は「人生のステージはだいたいこんな感じで、みんなこういう事に悩みますよ」、というのをまとめたもの。心理学や哲学、精神医学とかで見かけるやつだ。
それぞれの段階で獲得(達成)するべきものが「心理的課題」で、なんらかの事情でそれが難しい場合に感じてしまうのが「危機」だ。(物々しい)

画像は看護roo!からお借りしました。
kango-roo.comより

私はついこの間誕生日が来てめでたく23歳になった。表ではちょうど、自我同一性(アイデンティティ)確立を目指す青年期が終わり、親密性の確立を目指す成人期が始まるあたりだ。

この年齢の区別は大体のものだし、そもそもエリクソンがこれを発表したのは今から何十年も前のことなので、現代と必ずしも合うとは言えない。
だからあまりこの表に振り回される必要はないけれど、この表を見て確かに20代の今ってアイデンティティの確立も目指しているし、誰かと関わること(社会と関わる、というのもここに入るらしい)、親密な関係を築くことを目指してもいるよなぁ、と納得してしまった。

20代前半って、「いい時やねぇ」と言われるけれど、その分たくさん「ままならないこと」を経験して、たくさん傷ついて成熟していく、過渡期みたいな時期なのかもしれない。

各段階における心理的課題を達成したら次のステージに進める、自分のいるステージを一つあげられる、とも考えられる。
街を歩いていてすれ違う家族連れのお母さんも、病院の前ですれ違ったおばあさんも、カフェで仕事中のお姉さんも、きっとこんなふうに人間関係に苦しんで、「もう無理だ、私は幸せになれない」だなんて思って、それでもある時が来たら、あるところまで精神的に発達したら気付かぬうちに次のステージに進めたのだ、なんて考えてみる。

自分がひとりもがいているのではなく、みんなそれぞれの段階にいて、それぞれの課題を達成するべく日々生きているのだ。

20代を過ごし始めて少し経って、色々な人生のステージを生きる人達と関わるようになって、見える世界が広がって、そして喪失もたくさん経験して、苦しみながらもそう考えられるようになってきている。

ままならない中で



ままならない事がたくさんある中で、たくさんあるからこそ、今自分の手の中にあるものは大事にしようと思える。
それは今近くにいてくれる人であったり、自分が努力して手にいれたものだったりする。
また、いなくなった人たちが残してくれたものだったりする。

人は、動いていく。
ずっと一緒だよ、は多くの場合幻想である。
去っていく人は、その人のそれからの人生のために去って行くのだし、
またある時にはひょっこり思いもよらぬ人が自分の人生に現れたりする。
そういうもんなんだろう。

「こうならないように歩いて」も、
こうなる時は、こうなる。
(分かっていても、執着してしまうものだし、別れのたびに苦しいし出会いのたびに高揚するのだけれど。)


じゃあ、結局、なんなのか。
これを書いている、悩んでいる私自身に、そして読んでくれている誰かに、何を結局伝えたいのだろうか。

人間関係で苦しい時に、しんどい時に、「人生、こういうもんだよな」とある種俯瞰的に見た方が、ある種の諦念が頭にある方が楽になれることもあるよ、という事だろうか。
苦しいけれど、長い目で見たら「大丈夫」なんだよ、という事だろうか。

実際、何を伝えたいのかなんて、完全に分かっているわけではないのだと思う。
でも、「分かりません」という態度の方が、分かったようなフリをするよりよっぽど誠実だ、とも思うのだ。
「分からない」と思うからこそ、考え続けられる。
考え続ける、答えを急がない、という態度でいるのがいいよね、というのは取り敢えず伝えたいことなのかもしれない。

人生について考えて、「結局こういうことですよ」と答えを出せるのは何十年も先、エリクソンの発達理論の最終段の「統合性」の段階になってやっと、だと思う。
人生経験の乏しい20代の小娘(私)にはまだまだ無理な話だ。
それでも、今の自分の段階なりに、しっかり考えていきたいし、しっかり感じていきたい。

そうやって自分なりに、「まま、なる」(自分の努力でなんとかなる)事に丁寧に向き合い、
ままならないことは少しだけ手放す余地を残して、それでもその時の精一杯で向き合う。

そんなふうにこれからも進んでいきたいよなぁ、と思っている。
読んでくれたあなたも、久しぶりに目を通している未来の私も、そうやって歩いて行こうね。

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