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キムチチーズ丼の夜から考察すること。

数ヶ月前のこと。
Twitterで私が、
「真夜中にキムチチーズ丼を食べながら大泣きした」
と呟いたところ、これまでに無いほどのDMを頂戴した。 
大半が、普通の女の子っぽくて親近感が沸いたという内容だったのだが、当の本人としては「今までも普通だった」と思っている。

恋愛を含む様々な人間関係の中で、私はもしかしたらほんの少し周りよりも本能的に事象や心象を深掘りして捉えているかもしれない。
過程を飛ばして答えのみを先に体感する動物っぽいところがある。

今の人生を、私は答え合わせの時間だと考えている。
もしくは記憶を辿る時間とも言えるかもしれない。
既に知っていることを思い出したり、その過程を理解する時間だ。

さて、丼ものを食べて大泣きした話に戻るが、
その日は夜の23時過ぎに突然どうしても食べたいと思い、半ば使命感にかられてUberしたのである。
私が他人と暮らすのが難しい理由がこの辺りにあると思うだとかそんな事を考えながら、到着したご馳走を頬張った。
同時に、たまたま宇宙人から来たLINEを読んでいたのだが、何の脈絡も無く、彼の近くにいたとある人物が完全に彼の元を去ったことを理解した。

答えを先に知るとはこう言うことで、原因も根拠もさっぱり分からないが、事実として体感するのである。
人によってはこれを妄想と呼ぶだろう。
お好きに解釈していただいて結構。

「○○の人が居なくなった」と理解した私は、宇宙人のことを「とんでもない女たらしだ」と思いながら大泣きしたのである。
キムチもちょっと辛かった。
相手からしたら迷惑かもしれないが、男女問わず彼を愛している人たちを私は心のどこかで同士のように感じているし、また宇宙人のことで傷ついたことがある人には心底同情する。

口の中にご飯を詰め込んだまま、私だっていつかは彼の元を去っていく一人なのだろうと考えて、またボロボロ泣いてみたりした。
これはただの情緒不安定である。

あの夜ほど感情的になることは少ないが、何の前触れもなく、ある一言がカチッとはまってきっかけになったり、音や光景から突如全く関係の無さそうな事柄に関して「本当のところ」や「実は」を閃くように体感する。

それは、過去に起きた出来事や昔味わった感情を思い出すような感覚に近い。

私の感覚では「想像」ではなく「事実」なのだが、思考で整理していくと、根拠や原因となる事柄については私はまだ把握していないと結論付けるほかなかったりする。

あの日も、根拠を示せないのだから彼に指摘するという選択肢は私の中には無かった。

私が根本的に持っている愛しかたの性質として「実際のところ」をあえて「言わない、聞かない」が大部分を占めているのだろう。
静かにお腹の底に沈めておかなければならないことがまた一つ増えたなと思った。

でもお腹や心が重くてもいつも願っていることがある。

大好きな人たちには、
私と居る時くらい、いくらでもカッコつけてもらって構わない。
必要ならば嘘でごまかしてくれて良い。
言いたくないなら安心して黙っていてほしい。

心の声は相手の心に駄々漏れである。

これは言わないでおこうという何かをずっしり背負ったまま私を好いてくれる人たちのことを心底愛おしく思う。

宇宙人なんて代表格で、彼は私に言ってないことが山ほどある。
嘘だって安心しきって付きたい放題だ。
僕は美しいと言って清々しいほどに見栄をはる。

だけど、素直さや誠実さだけが人間の素晴らしさじゃないと私のお腹の底が言う。

真実を語ろうが口を閉ざしていようが、どちらのあなたも私の目には等しく愛おしい。
言わなかった言葉や見せなかった姿を既に知っているから、安心して在りたいように居てほしいと思う。

ご馳走を頬張って「宇宙人て悪いヤツだな」と泣いた日、この悪いヤツに私はものすごく生かされている(活かされている)と実感してまた涙を流したのである。
宇宙人と居ると、根拠不明の確信に数多く出会う。
私は自分の体感を信頼し、理由や原因を遡る時間を面白がっているのだ。

生きることに執着の無い私が、生きていることもそれなりに面白いと感じられる一因がここにあるように思えた。

しばらくすると、宇宙人は人生のレベルが74にパワーアップする。
私たちに残された時間があとどれ程あるか知らないけれど、変わらず私は全力で彼との日々に生かされて見ようと思うのである。































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