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卒・人生の食わず嫌い

「やりたいことを、やりましょう」

この言説に触れて戸惑いを見せる人が一定数存在する。

「それが分かれば楽なのですが・・・やりたいことが分からないんです。」


今日はこの問題について考えてみる。結論だけ先に記しておくと「人生の食わず嫌いから卒業しましょう」だ。

やりたいことが分からないというのはつまり、過去から現在に至るまで自分がやってきたこと・見聞きしてきたことは少なくとも、やりたいことではなかった(もしくはその面白さを見落としていた)と解釈できる。
ここを起点に「やりたいこと」に出会うための2つの可能性を考えたい。

  1. これまでやったこともない・触れたこともない世界に「やりたいこと」が潜んでいるので、新しい世界に飛び込んでみる

  2. 実は過去経験したことの中に「やりたいこと」が隠れていたにも関わらず気付かずにいたので、味わい直してみる

以下、それぞれの可能性について見ていく。

1. 新しい世界に飛び込んでみるパターン

主張そのままだ。某氏はこれを「タコわさ理論」と見事に比喩した。
子供に好きな食べ物を聞くとカレーだハンバーグだと元気な回答をもらえるが、タコわさという回答はまず期待できない。なぜならほとんどの子どもはタコわさを食べたことすらないからだ。食べたこともない対象を好きだと答えられるはずもない。

やりたいことについても同じで、仕事にせよ趣味にせよ、本当にそれがやっていて心から楽しく、いつまでもやり続けたい対象かどうかはまず体験してみないと分からない。

僕の場合、趣味で熱中している柔術がそれだ。生まれてから30年間喧嘩はおろか口論すらほとんどしたことがない人生を過ごしてきて、まさか格闘技にハマる世界線があるだなんて想像もしていなかった。

多いと週4とかで道場通ってる

高校卒業以降運動習慣を失ってしまい、それでも健康維持に運動は絶対必要だと理解していたため、ランニング、水泳、ボルダリング、筋トレ、ポールダンスetc.と様々に手を出したがどれも三日坊主の有様だった。

ある日友人から「柔術体験行こうや」と誘われた。内心乗り気ではなかった。喧嘩ですら未経験の自分には格闘技とか怖いし、汗だくで臭そうだし、道着なんて買ったら邪魔そうだし、とにかく自分の運動候補リストにおいて柔術は間違いなく最下位に近い位置にあった。

それが蓋を開けてみれば人生で一番ハマるスポーツとなるから面白い。柔術は死ぬまで続けると確信している。正真正銘の生涯スポーツに出会えた、その事実だけで心から幸せだ。

まさか、自分が。

柔術を始めるまで、僕も「まさか自分が格闘技にハマるわけがない」と思っていた。とんだ食わず嫌いによって、超重大な「やりたいこと」との出会いを危うくつかみ損ねるところだった。
「まさか、自分が」という一言が、自分の可能性を潰しているかもしれない。人間は基本的に過去から現在の経験をベースにした物差しでしか判断できない。「まさか、自分が。」という発言もまさに、これまで触れてきた限定的な世界、いわば自己都合の思考でしかない。

そんな自己都合を払拭して新しい世界に飛び込むと、想像もしなかった「やりたいこと」との出会いが待っている。

2. 味わい直してみるパターン

「あれこれ試してみるけど、全然運命的な出会いがないんです」
これもよく耳にする言説だ。

僕の返答はこれ。
「それ、ちゃんと味わってみてますか?」

新しい世界へ飛び込んでみるということを履き違えている可能性があるのだ。片足の小指の先だけ入って「飛び込んでみた」と言ってしまってるケースだ。味が分かるか分からないかの分量をペロッとやって、好きじゃなかったと早すぎる判断を下してしまうやつだ。実際は食わず嫌いと変わらない。

好きか嫌いか。向いているか向いていないか。
そんなの、一朝一夕には分かることの方が稀だ。同じクラスメイトで、最初は特に仲良い訳じゃなかったけど一年経ったらクラスで一番の親友になっていた、なんてことは多くの人が経験しているのではないだろうか。

試してみると決めるのであれば、ちゃんと好き嫌いが判断できるまで味わい切ってみてようやく「試した」と言えるのではなかろうか。

また僕の事例をあげたい。突然だが僕はいま巫女修行中だ。

突拍子もなさすぎるが一旦落ち着いて聞いていただきたい

厳密には巫女は女性の職業であり、男性の僕は覡(かんなぎ)修行中となる。

ひょんな人との出会いから修行の入り口に立つことになったが、元はと言えば10代の頃の僕は「神には頼らねえ」という罰当たりな発言も繰り出すほどの左脳派・リアリストで、スピリチュアルな世界とは完全に一線を引くタイプだった。

紆余曲折の熟考を重ねた。ヤバイ新興宗教にはまってしまい家族や友人関係が崩壊するみたいなワーストシナリオもあったので今生の慎重さを見せた。
結果「食わず嫌いはやめよう」というのが当時の結論で、同時に「6ヶ月だけやってみて、それで判断しよう」ということも決めた。

「まずは6ヶ月だけ」「やると決める」という2つのミソがあった。

一つに結果論だが、6ヶ月ぐらいやらないとその世界観に対する自分の好き嫌い・向き不向きが分からなかったのだ。現に6ヶ月経つぐらいのタイミングで論理では説明できない様々な出来事が発生し、見えない世界と明確に繋がったと認めざるを得ない状況に至った。僕にとっては1回の人との出会いでもなく、1ヶ月のお試しでもなく、6ヶ月という期間が「やりたいこと」に気付くまでに必要な歳月だった。

もう一つ、「やると決める」こと。やると決めたからには徹底的にやった。かつて「神には頼らねえ」とまで言ってのけた少年が、毎朝神棚に祈り始めた。週末、家族の時間を犠牲にして、真冬の滝に打たれにも行った。中途半端ではなく、やり切った半年にしないと、結局自分が向いているか分からないと直感していたからだ。

結果、半年後の僕には覡という新しい職業機能が加わることになり、今も絶賛修行が継続している。
(冷静に頭どうかしてるという見方もあるので悪しからず。誰にも害を及ぼすことはないのでそっと見守ってください。)

まとめ

やりたいこととの出会いは、これまでの自分が触れてきた世界の外側にいくらでも広がっている。それは自己都合の価値観にどれだけ逆ハンドルを切れるかという挑戦でもあるし、飛び込むと決めたら指先ペロではなくきちんと味わい切れるまでやりきるという覚悟でもある。味わい切るために必要な期間や濃度はケースバイケースだが、つまり「やる」と決めた自分とどれだけ心の底から約束ができるかと言い換えられるだろう。
新しい世界に飛び込まずに立ち止まっているのは勿体無いし、飛び込んだけどロクに味わいもせず退場してしまうこともまた勿体無い。

以上、真なる意味で人生の食わず嫌いから卒業していこうな、という話でした。

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