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倫理は「痛み」を内包している

「これは○○だけのものじゃないんだよ。みんなのものだから、みんなで使おうね。」

おもちゃでも、ゲームでも、ぬいぐるみでも、ある子が「みんなのもの」をひとり占めして、それを他の子が使えないでいるとき、大人であればこう言葉をかけるでしょう。そして、多くの場合、子どももそれを了解すると思います。

おそらくそれは、それが「正しい」ことと分かるからです。でももしかするとそれは、ずっと元をたどるなら、はるか以前にそれを拒んでしかられた経験があるからかもしれません。

好きな公園の遊具で遊んでいるとき、周囲にそれを使いたい人がいれば、譲れることが「良い」ことで、それを拒絶するのは「悪い」ことなのはどうしてなのでしょう。

答えは単純で、その遊具の数が限られているからです。しかしでは、その遊具の数が限られている状況こそ、「悪い」のではないでしょうか。この一見したところの「屁理屈」を、私たちは忘れないようにしたいものです。

たとえば、話は随分変わりますが、家庭養育優先原則が話題になるときもそうです。近年、なぜ施設よりも里親の方がより「家庭的」でより「良い」環境とされているか。

それは、施設という公的な場所を婚姻によってすでに成立している家庭以上に「家庭的」にするためのリソースを、私たちが注げていないからです。そしてそこに私たちが正面から向き合うべき問題が潜んでいるのです。

もっとも、「みんなのもの」に話を戻すと、わたしは公共的であることに価値をむしろ見出しています。ただその成立には、誰のせいでもないこの世界の制約と、望ましいことをすっかり享受できない哀しみがあることを思い出しておきたいのです。

思うに、人と人とが取り交わす「倫理」は、どれも何らかの痛みを内包しています。けれど、痛むことそれ自体が「倫理」なのではありません。

さまざまな痛みを超えて、人とつながることで新たな価値が生み出されるすべ、あるいは知恵の総体が「倫理」である気がしています。

「これは○○だけのものじゃないんだよ。みんなで使って、もっと楽しもうね。」

瑕疵を数えればきりがないだろうこの世界を、他者とともに楽しみ力強く生きるすべを、ひとつでも、ふたつでも、子どもに(限りませんが)伝えられる人でありたいと願います。

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