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綿あめと15周年

少し前のこと、実家で3歳になったばかりの姪がデパートで買ってもらったカラフルな綿あめを大事そうに抱えているのに出くわし、ついいたずら心がわいた私は、どんな反応するか見たさに「わあ、おいしそう。いいなー、晋チャンも食べたいなー」と大人げなくもねだっていました。

案の定、いつも一緒に遊んでいる晋チャンからのお願いに困り気な姪を見ながらニヤニヤの私。結局すっごく迷ったあとで、「これはねー、あとでママと一緒に食べるって約束してるやつだから、晋チャンにはまた今度買ってきてあげるね」と姪。

美味しそうな綿あめはたくさん食べたいという気持ちの健康さと、ママの「おいしいね」っていう笑顔も見たいという気持ちの健気さとともに、私に対してあと腐れないよう事態をうまく収める策略家ぶり(?)も合わせて見られ、口では残念そうな振りをしつつも内心大満足でした(ヤなやつです)。

しかし実家を後にした私の携帯に、母(姪のおばあちゃん)から「あの後であの子また戻って来て、『この綿あめ、晋チャンと食べるから』って残した綿あめ半分置いていったわよ。ちゃんと一緒に食べてあげてね」とメッセージが。

それを読んだ刹那、わが身のうちをうれしさとはずかしさ、愛おしさと自身を「大バカ者!」と罵る声とがないまぜになり、いわく言い難い思いが怒涛のごとく駆け巡りました。

改めて言葉にしてみるなら、それは、私もまたあの小さな小さな姪からめいっぱいに想われていたという有難さ、けれど一方で私自身はその想いをはるかに小さく見積もったうえで、あらんことか知ったつもりになっていた浅はかさとが、いっしょになって私を襲ったということでしょう。

結局、くだんの綿あめは、次の姪との再会を待たず、ほんの数日のうちに見る影もなくしぼんでしまって(!)、一緒に食べることはかなわず、私はまたひとつ返礼不可能なものを受け取ってしまいました。

私と3歳の姪。その違いはもちろん大きなものですが、たまたま有利な場所にいて相手をコントロールする力を得てしまっているというだけで、相手のことを分かっているかのように考えるのは、控えめに言ってもパターナリスティックな思い上がりです。

しかしこうした関係にいたる陥穽は、この話に限らず、この世界の至るところに潜んでいます。しかも多くの場合にそれは、実際に相手をコントロールしてしまう関係にまで進んでしまっています。
虐待(マルトリートメント)もまた、そのごく自然な延長にあって、そこへ無自覚に絡めとられてしまう可能性は、私たちがみな共通に持っているものなのです。

今回の私に限らず、その可能性への気づきは、たくさんの羞恥を伴うかもしれないとはいえ、その一つ一つが幸福なものでしょう。
(姪に限らず、子ども、若者、路上生活の人など、過去、様々な場所で私と出会い、それを与えてくれた人々には改めて心からの謝意を表します。)

✳︎

先月末、Living in Peaceは15周年を迎え、内々でも対面の記念パーティーを行いました。思えば前回同様な会を催したのが10周年のときなので、この間に未曽有のコロナ禍の3年がすっぽり収まります。
パーティーの同日に創設者の慎と少し話をしたおり、この5年の団体としての継続は、これからの30年につながる、という趣旨のことを彼が言っていましたが、振り返って本当に多くのことを経験した5年間だったと痛感します。

Living in Peaceの「すべての人に、チャンスを」というビジョンは、人と人がお互いに一人の人として新たに出会われるなかで一歩一歩進んでいくものと、私は信じています。
それゆえに今後の30年もまた、そうした幸福な出会いを媒介する役割をLiving in Peaceがいっそうに担える歩みでありたいと強く、強く思います。

30年後、3歳の姪がほとんど私と同じ年齢になったとき、この世界が、そしてそこに息づく命が、くまなく無二の輝きをまとっていることを願って。

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