マガジンのカバー画像

認定NPO法人Living in Peaceマガジン

130
認定NPO法人Living in Peaceの、全noteを詰め込んだマガジンです!
運営しているクリエイター

#エッセイ

年末のご挨拶

12月に入り、数え切れない人たちの心中を「今年もあっという間に終わってしまった」という言葉がよぎっていることと思います。 もちろん時間の概念的には「時間の速度」なんて考えられないわけですが、気づけば12月だったという驚きはとにもかくにも否定しようがありません。それは「駆け抜けた」というよりは「翻弄された」と言うべきものでしょう。 しかし、年明け早々、緊急事態宣言の再発令から始まったことを思えば、事態は本当に大きく前進しています。どうか、みなさん一人ひとりの頑張りを過小評価

ことばを正しく使うこと

真実であることの価値がゆらぐ昨今の国内外の政治的状況が、「ポスト・トゥルース」と語られることが増えました。 しかし21世紀に限らず、かつてのベトナム戦争にまつわる米国の政治的状況について経済学者の猪木武德は、宗教的信念の希薄な民主主義社会においてことばへの信頼が脅かされやすいと指摘しており、思わず首肯するばかりです。 ことば自体、真実を伝えるだけのものではありません。謝ったり、約束したり、あるいは美しいレトリックで魅了したり、いずれもことばの大事な側面です。 しかしなが

空に向かって落ちる

立秋を過ぎても、暑い盛りが続きます。 暑い暑い屋外では、つい前ばかりを凝視して一目散に涼しい室内を目指してしまいがちです。しかし、一年でもっともエネルギーに溢れた空は、立ち止まって頭上を振り仰ぐ者に力をくれます。 時刻を遅らせれば、これが織姫と彦星が年に一度の逢瀬を遂げる天空なのです(今年の旧暦七夕は8月14日)。 小さいころから空を垂直に見上げたまま歩くのが好きです。今でもたまにやれば、空に向かって頭から落下しているような不思議な気分になって、やっぱり楽しい。 勝手

多様性は、ただ「みんな違う」ということではない

多様性というものの価値をもはや問わなくてよい時代に、私たちは(ようやく)入りつつあります。 多様性(diversity)、あるいは包摂(inclusion)がLiving in PeaceというNPOにとって目指すべき星であるのは言うまでもありません。 しかし同時にそれらは、私たちの目には映らぬ、いわば特殊な発光をする星のようにも思います。 多様性とは、ただ「みんな違う」ということではありません。 あるチームのメンバーの身長が一人ひとり違ったとして、そのチームを多様性

権利擁護は、素朴な営みの先に

昨年、『インディペンデントリビング』という、大阪を舞台に、障害者の自立生活運動を追ったドキュメンタリー映画が公開されました(田中悠輝監督)。原一男監督の『さようならCP』からほぼ半世紀、障害を抱える人のリアルを写した映像作品として、つぎの半世紀を見据える傑作だと思い、感銘を受けました。 劇中、印象深い場面があります。脊椎損傷で四肢が自由に動かない渕上賢治さんが、車いすのうえで仰向けになる格好で介助者にタバコを吸わせてもらうやり取りが、冒頭から繰り返し映し出されるのです。

反面教師から「こうなりたい」は出てこない

一年がまるごと「コロナ」に染まって過ぎ、この四月、新年度を迎えました。 本来「始まり」とは、とくに子どもにとっては晴れがましいはずのもの。それが今年はいつにない陰りを帯びているのではないでしょうか。 もちろんその一部は致し方ないものです。しかし、わたしはその陰りのかなりの部分を子どもを取り巻くわれわれが作り出している気がしてなりません。 端的に言うと、大人たち(そして、社会)は子どもの信頼をこの一年でどんどん失っていると感じます。 「反面教師」という言葉があります。け

誰もが光に気付けるように

「節分」という分かりやすい日に生まれた私にとって、今年、誕生日の代名詞である節分が誕生日の前日になったのは思わぬことでした。 半身がもがれるような、なんて大層なものではないけれど、入学式の次の日に初登校するような言いようのなさを感じました。 言いようのなさと言えば、節分に生まれた私は、世界に到来した福なのか、母の胎内から追い出された鬼なのか、というどう考えても仕方のない「究極の問い」を思っては、そのつど胸の下あたりがムズムズする子どもでした。 幼い私に「お前は取り替え子

閉じたくなる目を見開き、塞ぎたくなる耳をすまし

元旦から数日遅れてのんびりと見た今年の初夢。私は、最高潮の熱気に包まれた東京2020オリンピックの開会式を自宅のテレビにかじりついて観ていました。目が覚めて呆然としたのは、言うまでもありません。 思い返せば、昨年の年始挨拶で私は「昨年は30年ぶりに元号が改まり、今年は56年ぶりにオリンピックが開催されるというタイミングで、私たちは時代の画期にいるかのようです。」とも書いていました。 「時代の画期」という言葉がいっそう当てはまる状況になりながら、その内実がまったく隔絶してい

「存在」へのまっすぐな呼びかけ

年の瀬も近くなってきました。今年はあまりに色んなことがあり過ぎましたので、今回は箸休めとして少し気楽な(取り留めのない)話をお許しください。 ずいぶん前ですが、その頃はまだ出会って間もなかった中学生の子に「挨拶って何のためにするの?」と聞かれたことがあります。 今思えば、それが何ともその子らしい「挨拶」なのですが、そのとき私は「『あなたの存在に気付いています』って伝えるためだと思う」と咄嗟に答えたのでした。 「こんにちは」「さようなら」 その言葉自体は習慣的で意味がな

いのちへの感度

哀しみと後悔のなかから見えてくることがある。 小さいころから「毎朝、背にまたがって登校できる犬を飼いたい」という土台無茶な望みを持って育った私は、10代も半ばを過ぎて、ついに家で犬を飼うことになったとき、まさに飛んで喜んだ。 ペットショップに行くと、産まれたばかりの子犬がケージにたくさんいた。兄弟犬に踏みつけられているようなちょっと頼りない犬になぜか心が動き、「あれがいいんじゃない?」と言ってみる。後日、その子犬が我が家に来た。乗れはしないが、またがれるくらいには大きくな

Living in Peace創設13周年によせて 共同代表 中里晋三より

10月28日にLiving in Peaceは創設13周年を迎えます。 人間で13歳というと、「〇歳からの~」という本の多くがこの年代を対象とするように、来たるべき変化の予兆を感じつつ、新たな可能性を模索しようとする時期でしょうか。私たちもまた自らがそうしたステージにいることを自認し、新たな展開を模索しています。 2020年という、当初誰も予想しえなかった仕方で社会が大激変を蒙り、決して忘れられない年となった本年、多くの方に支えていただくなかで、私たちは幸いにもより大きな

「やさしさ」について思うこと

出不精のわたしですが、たまに遠出すると思わぬ機会にめぐり合うことがあります。 あるとき不慣れな電車に飛び乗ると、 「恋は下心で愛は真心ね。で、人の真心って、つまり優しさのことだよ」 と、その土地の高校生が友人に諭している(?)場面に出くわし、ひそやかな感動を覚えました。 それは、漢字の成り立ちを用いた説明のたくみさというより、それまでうまく飲み込めずにいた「やさしさ」という言葉がこれ以上ない明快さで、ストンと了解されたことの驚きでした。 わたしにとって「やさしさ」と

「いつでもおいでや」 無条件に受け入れる言葉の持つ力

昨年の8月に企画・実施した、ステップハウスとも(大阪市西成区で身寄りのない若年女性の自立を支える、荘保共子さんの取り組み)の運営資金を集めるクラウドファンディング。 企画を取材してくださったノンフィクションライター、飯島裕子さんによる記事では、ステップハウス利用者(DV被害から逃れてきたAさん)の次のような声が取り上げられていました。 荘保さん:うちのことをどうやって知ったんだっけ? Aさん:誰にも相談できなくて、”ひとりぼっち”って言葉がこれほどあてはまる人もいないんじ

「そんなことをしてどうするの?」子どもにとって「遊び」とは何か

昨年は「子どもの権利条約」が国連で採択されて30年の節目でした。 その第31条では「子どもの遊ぶ権利の保障」が次のように定められています。 第31条 1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。 2.締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための